青信号が許しても僕は前へは渡れない





刀を鞘に納める、澄んだ音がやけに大きく響いた。切り伏せた男たちを一瞥して辺りを見渡せば、血の海の中に、女が一人、肩で息をしていた。
「おい、怪我してねェか」
「だいじょーぶ、です。土方さんは」
「なんともねェよ」
過激派テロリストが江戸市内の旅館に続々と集まっている。
そんな情報を観察が報告してきたのは、実に三日前のことだった。それからは、寝る間も惜しんで走り回った。浪士共の人数、御用改めのタイミングや布陣――。短時間でたてた計画とはいえ、この捕り物は、そこそこ首尾よくいった。建物のどこからも剣戟も怒声も聞こえてはこないことから、あらかた鎮圧し終えたのだろう。
しかし、刀を降り回している間に俺とは、仲間とはぐれてしまったらしい。周辺に仲間の気配は感じられなかった。


そろそろ戻るぞ、とに声をかける。すると、はぁい、となんとも緊張感のない返事が返ってきた。
「あ、そういえば土方さん」
「なんだ」
「お誕生日おめでとうございます」
今この場で、この状況で、何を言っているんだ、この女は。
「……頭でも打ったか」
「私は正気ですよう。ただ、ここ二、三日忙しかったんで、プレゼントとかは用意できてないんですけど、いちおう、おめでとうぐらいは言っておこうと思って」
そう言って、ヘラリと笑うの頬には返り血が飛んでいる。スカーフを外して、血を拭ってやれば、は少し驚いた表情をしたが、大人しくされるがままになっている。


「で?」
「はい」
「なんで突然誕生日だなんて言い出すんだ」
「あれ、もしかして今日じゃありませんでした?」
そうじゃねェ。辺り一面血の海で、死んでんだか生きてんだかわからねェが、何人もの人間が転がってるこの部屋で、この女は何を言ってんだ。
「少しは空気を読めっつってんだよ」
「んー、でも急に思い出してしまって、今このタイミングを逃すと忘れちゃいそうだったんで。今日も後、二、三時間で終わっちゃいますし」


相変わらずトンチンカンなことしか言わないを置いて戻ろうとすれば、後ろから慌てたように軽い足音が追いかけてきた。
「いやぁ、何とか無事に明日を迎えられそうじゃないですか。また一つ歳を取りましたねー。今年も死ななくて済みそうでなによりです」
「不吉なことばっかりいってんじゃねェ」
声に怒気を含ませて、後ろを振り返れば、キョトンとした顔のが首を傾げる。まったく、頭のネジが数本足りねーんじゃねェのか。
「俺もお前も、ついさっきまで散々刀振り回して、人を斬ってたんだぞ。お前の言葉を不謹慎だと咎めるつもりはねェが、ちったァ慎め。どこで誰が聞いてっかわかったもんじゃねーぞ」
「あら、だからこそ、ちゃんと誕生日を迎えられてよかったなぁって思ったんです」
よく見れば、の隊服の、右腕部分が裂けている。そこからちらりと覗いた肌は、赤く染まっていた。
「毎日、いつ死ぬか判らない生活をしてるじゃないですか。五体満足で明日を迎えられること、一年を過ごせたことに感謝しなくては。あぁ、すみません、さっき斬られちゃったみたいで」
の上着を脱がして、シャツの上からスカーフをきつく巻いた。先程、の頬を拭ったスカーフだから、清潔とは言い難いが、何もしないよりはマシだろう。応急処置を終えた俺の手を、は包むように両手で握り締めた。
「人を斬って殺して、命を奪う仕事をしていますが、私は土方さんに死んで欲しくないんです」
物騒なことはとは裏腹に、は穏やかな笑みを浮かべている。
「命や罪や、罪悪感を背負ってでも、土方さんには生きて欲しいんです。もしも、土方さんがその重さに押し潰されそうになったら、そんな日が来たら、私も一緒に荷を背負います。土方さんのことが、大事なんです」


こいつの頭のネジが足りないのは、元からか。それとも真選組に入隊してから徐々にこうなってしまったのか。もしそうならば、こいつがこんなにもおかしくなってしまたのは、俺の所為なのか。
「土方さんの、せいじゃないですよ」
ここで初めて、は困ったような顔をした。
「そんなに難しい顔をしないで下さい。つまり、私は土方さんが大好きって言ってるだけなんです」
さぁ、そろそろ戻りましょう、みんな心配しますし。が先へ促して、俺はようやく歩き出した。
女というのはつくづく怖い生き物だ。何を考えてんのか、どんな理屈で動いてんのか、皆目見当が付きやしねェ。


それでも、一番怖いと思ったのは、一緒に荷を背負うといった、の細い肩にいつか甘えてしまいそうな、自分自身だった。