愛しているよ。大事にするから、お願い。側にいて。





幸せの現在地





鈍い音と、体を襲った衝撃に、私は目を覚ました。冷たく硬い床。いつもより少し高い位置にある天井。
あぁ、もう、これで何回目だ。口には出さず、心の中で毒を吐くのも、もはや片手では数え切れなくなっている。別に大したことではない。背中が少々痛いのと、安眠を妨害されたことを除けば、なんら問題ではない。
私がベッドから転がり落ちただけなのだから。


まだ覚醒しきらない体を叱咤して起き上がると、さっきまで私が寝ていた場所には我が物顔のシズちゃんがいた。
まぁ、実際問題、ここはシズちゃんの家だから、このベッドもシズちゃんの物なわけだけど、それでも、こんな理不尽な強制目覚ましで起こされたことを考えると、この幸せそうな寝顔は非常に腹が立つ。
絶対、シズちゃんが私をベッドから追い落としてる、と思う。そもそもこんな小さなベッドに二人で寝ること自体が間違ってる。私は身長・体重ともに標準サイズだけど、シズちゃんはどう考えたってデカイ。このベッドに、収まりきるわけがない。
まぁね、昨晩もキスしたりなんだり、つまり大人の時間を過ごしたばかりだからね、その後に別々に寝るとか、それはないけど、でも明け方にベッドから落とされるのもちょっと勘弁してほしいわ、ホントに。
何度か床に布団を敷こうって提案もしてみたけれど、シズちゃん曰く、布団を片付けるのが面倒だから、イヤだ、なんだと。そりゃあ、ベッドは楽だけど、でも、それは一度もベッドから落ちたことのない人の言い草であって、一回でも、この冷たい床との望まない衝突を経験してみたら、少しは考え直すんじゃないかと思うんだけど、どうだろう。


春とはいえ、まだ明け方はずいぶん寒い。ぼんやりと座り込んでいたら、床に触れていたところから、どんどん熱が逃げていって、気がついたら体は冷え切っていた。
やっぱり、まだ眠いし、二度寝しよう。音を立てないように、ベッドに這い上がったつもりだったのに、そのわずかに気配を感じ取ったのか、シズちゃんを起こしてしまった。
「なんだ、また落ちたのか。寝相悪いなあ」
寝惚け眼のくせして、しっかり憎まれ口をたたくとはいい度胸だ。さっきまではシズちゃんを起こさないよう気をつけていたけど、もうやめだ。私は嫌がらせと、暖を取るのが目的で、シズちゃんの上にダイブした。
「シズちゃんが私を端っこに追いやるから落ちちゃったんだもん。彼女を追い落とすなんて、酷い彼氏もいたもんだ」
「仕方ないよな、一人用のベッドだし」
「なに開き直ってんのよ、もー!!」
シズちゃんの上で暴れてみても、当の本人は平然としている。それどころか、そんなんしてるとまた落ちるぞ、などと窘めてくる始末だ。落ちた、んじゃなくて落とされたんじゃー、という主張はなかなか聞き入れられない。


いい加減、暴れ続けるにも疲れてきて、私は大人しくシズちゃんの腕の中に収まった。よしよし、と頭を撫でてくれるシズちゃんの掌は心地良いけれど、ここで私が折れるわけには行かない。断じて。
「ねー、シズちゃん、布団にしようよ。片付けとか、全部私がするから」
「いいだろ、ベッドで。布団だったら埃も立つし」
「掃除もするから!」
「収納場所なんてないし」
「生理整頓するから!!」
「もういっそ、新しくて大きなベッドにしねえ?」
「……いや、そんなん置く場所ないから」
シズちゃんの家は、普通の、一人暮らし用の、狭い家だ。私も何度か遊びに来たり、現在進行形でお泊りに来たりしているけど、二人でいるだけで一杯になってしまうような小さな家、と言うか部屋に、これ以上何か置くスペースなんてあるだろうか、いやない。


ていうか、布団の収納場所がないって言ったくせに、この流れでなぜベッド。しかも、今のより更に大きなやつなんて。もしかして、寝惚けてんのか、そうだよね、まだ明け方だし。辺りもまだ暗いし。
よし、じゃあ私も二度寝すっかな、今度は落とされないように気をつけないと。
一人で納得して寝直そうとしたら、シズちゃんにほっぺを抓まれた。痛い。ベッドから落ちたときより痛い。もうちょっと手加減してくらたらありがたい。
「なにすんの」
「こら、なぜ寝ようとする」
「いや、だってシズちゃんも寝てるみたいだし」
「そーか、そんなに寝たいか。じゃあ二度と目が覚めないようにしてやろうな」
「それ、彼女にいう台詞じゃないよ!!」
安眠妨害の次は永眠させようとするなんて、いくらなんでも極端すぎるよ。私が何をしたって言うんだ。
「だから、もちっと広い部屋に引っ越そう。二人用のベッドを買おう。さっきからそう言ってんのに無反応かよ」
いや、初耳です。主に始めの部分が。ええ、それって、あれって、いやいやどういうつもりかって、つまり、こういうこと?
「今度の休みは家具屋に行くか。いや、その前にまず不動産屋か。も家片付けたり、少しずつ用意しとけよ」
「ちょ、ちょっと待って。展開が早くてついていけないよ、置いてけぼり過ぎる! えっと、ワンモーメント、プリーズ!!」
「よし、待ってっから走ってこい。A.S.A.P.」
深呼吸をして、息を整える。これって、私の自惚れとか勘違いじゃないよね。もしそうだったとしたら、恥ずかしくて死ぬかもしれない。
「ええとですね、引っ越ししようって言う前に、もう一文、最重要フレーズがあると思うんですよ、私的に。そこが全ての基礎っつーか、根幹っつーか、シズちゃんがビシッと決めてくれないと進まないと思うんだけど」
「いや、言わなくても分かると思ったから」
「だめ! ちゃんと言って!! そこ重要だよ、赤線引いとけ、テストに出るからって先生にも言われたでしょう!」
「わかったから落ち着けって。なんでそんなに言葉とか、台詞に執着するんだろうな、女って」
私はいつの間にか、ベッドに起き上がって熱弁を奮っていたらしい。手を強く引かれて、私は再びシズちゃんの腕の中に倒れこんだ。
「いや、大事でしょう。トキメキたいよ、人生の一大イベントじゃん」
「でも、証拠とか形とか残らないからさ、だからベッドとか、モノの方がいいかなって思ったんだけど」
「ちょっと即物的すぎると思います。だから、言葉もベッドも、両方欲しいです」
「だから、の接続詞の使い方が間違ってるぞ」
よっこいせ、シズちゃんが私を抱き締め直す。暖かくて優しくて気持ち良い。ここ以上に幸せになれる場所なんて、世界中どこ探したって、きっと見つからない。つまり、シズちゃんさえいれば、私はどこにいたって幸せを感じられる。
「じゃ、言います」
えへん、とわざとらしく咳払いするシズちゃんが可愛い。私は待ち望んだ言葉を、一つも聞き逃すまいと、息を殺してシズちゃんを見つめた。
「一緒に、暮らそう。もちろん、お互いの将来を見据えた上で、です」


それ以上はシズちゃんの目を見ていられなかった。シズちゃんは、その厚い胸板に顔を埋めて肩を震わす私を、あやすように宥めた。
「おい、何も泣くことないだろ」
「うん、ごめん。なんかもう、想像以上に嬉しくて舞い上がっちゃって、どうにかなりそう」
「で?」
「う、」
「俺もちゃんと言ったし、からもきっちり返事を貰いてえんだけど」
鼻をすする私の顔を、少し意地悪な笑みを浮かべて覗き込んでくる。聞かなくたって、答えなんか分かってるくせに。
でも、言葉が欲しいと最初にだだをこねたのは自分だったし、それを考えると、きちんと返事をしなければならないのだろうが。いかん、これはちょっと、いや結構恥ずかしい。
迷っている間にも、ほれほれ、とシズちゃんは答えを急かしてくる。ええい、ままよ。女は度胸。
「えっと」
「うん」
「私もシズちゃんと、一緒にいられたら、すごく嬉しい。ご飯つくってあげたりつくってもらったり、お帰りって言ったり、ただいまって言われたりしたい」
シズちゃんが黙って私を抱き締める。私の心臓は、今やかましいほどに早鐘を打っているけれど、シズちゃんの胸からも同じくらいの速さの心音が聞こえてきた。
「だから明日、ベッド見て不動産屋にも寄ろうね」
そうだなー、引越しの見積もりしたり、この家の片付けもしなきゃなんねえな。あとは、ガスと、水道と、郵便か。連絡しとかねえと。ずいぶん気の早いことを言う恋人に、自然と笑みがこぼれる。
あぁ、緊張させやがってとシズちゃんは溜息をつくけど、私が断るとでも思ってたんだろうか。


窓の外は、うっすらと明るくなり始めている。鳥の囀りや、車のエンジン音なんかも響いてきた。でも、起きるにはまだ早いし、しばらくはこうしててもいいだろう。
シズちゃんの背に腕を回して、力いっぱい抱きつけば、私の額に優しい唇が触れた。
ここが私だけの場所であるように、私もシズちゃんに居心地の良い安らげる家を作ってあげたい。目を閉じて、身体いっぱいにシズちゃんを感じながら、私たちは朝を迎えた。