もうひとかけの勇気と厚かましさで





運命とタイミングの問題





どうしよう。さっきから私は白い箱を抱えて、往来の真ん中で逡巡している。
歌舞伎町の一角、『万事屋銀ちゃん』と書かれた看板が見える。よし、という掛け声と、でも、というためらいが口の中をいったりきたりするばかりで、前に進むことはおろか、後ろに下がることもできない。まさに膠着状態。
ちらりと抱えた箱を見遣る。悩みに悩んで決めた一品は、結局、ハズレの少ない無難なモノに落ち着いた。しかし、あまりモタモタしていると、せっかく選んで買ってきたのに無駄になってしまう。
もう一度、看板を見上げる。心なしか、万事屋は先日訪問した時より、ひっそりしているように見える。頻繁にお客がくるような商売ではないとは聞いたが、はたして今日、銀さんは家にいるだろうか。いるかいないか、そんなことは玄関横の呼び鈴を鳴らせばすぐにわかることなのに。
埒が明かない。私は一度深呼吸をして、作戦を練り直すべく、近くの喫茶店に入った。


案内されたのは、窓際の席だった。万事屋へ続く道を眺めながら、銀さんが通らないかしらなどと、都合の良いことを考えた。温かいココアを注文し、大事に抱えていた箱を隣の椅子の上においた。
箱の中身は銀さんへのケーキだった。ケーキはマメヤという自宅近くのお店で買ってきたものだ。あまり大きな店ではないのだが、生クリームの上品な甘さや色とりどりの見た目にも楽しい焼き菓子が好きで、仕事帰りなどによく寄っている。
以前、銀さんが甘いモノが好きというのを聞いて、真っ先の思い浮かんだのが、このマメヤだったのだ。1時間ほどの余裕を持って保冷剤を入れてもらったのだが、その時間もそろそろ迫っている。このままケーキを渡さずに帰るなんてことはできない。隣に鎮座しているケーキを睨む。
だがしかし、はたして銀さんはケーキを受け取ってくれるだろうか。退かれてしまったらどうしようか。私の銀さんの間柄は決して親しいわけではないし、依頼者と被依頼者の関係なんて、銀さんにとってはただのビジネスなんだし。
ウェイターが温かいココアを運んできた。外は別段寒くもなかったが、甘いココアを飲むと、指先までじんと暖まって、少し気持ちが落ちついた。甘いものが好きってくらいだから、銀さんもやっぱりコーヒーなんかよりココアが好きだったりするのかしら、そう思って少し笑ってしまった。


半年程前、暦の上ではもう春だったが、まだ肌寒い季節だった。私は当時、江戸に出てきたばかりで、慣れないこの街で迷子になることも少なくなかった。そして、やはりというか、案の定というか。
「どうしよう……」
私は半泣きになって、重たい鞄を抱えて右往左往していた。仕事で出張を命じられ、張り切って出てきたはいいものの、すっかり道に迷ってしまったのだ。
道を聞こうにも交番も見当たらない。人に聞いても、忙しいだのわからないだの、ゆっくり話もさせてくれない。
先方との約束の時間は刻々と迫っている。こういう時に限って携帯電話は家に忘れてしまっていた。
八方塞がりの状態で、パニック寸前だった、その時。


「なに、アンタもしかして迷子?」
勢いよく声のした方を振り返ると、そこに立っていたのは、銀色のふわふわした髪の青年だった。
「あのっ、仕事でここまで行きたいんですけれど、道に迷ってしまって、遅刻しそうで。道を教えていただけないでしょうか」
藁にもすがる思いで、目的地の住所が記してあるメモを渡すと、銀さんはふーんと言って、こちらを見た。
「結構ここから距離あるぜ。アンタどっからきたの? ここまで迷子になれるって一種の才能じゃね?」
かなりの距離がある、と聞いて私は青褪めた。走って間に合う距離だろうか。いざとなったら自腹でタクシーだが、そう都合よくタクシーが拾えるだろうか――と、ここで私の考えは中断された。銀さんが私の手を引き、早足で歩き始めたからだ。
「あの――?」
「急いでんだろ、この場所まで原チャリで送ってやるよ」
このあと私は無事、時間通りに目的地に着き、銀さんから『万事屋銀ちゃん』と書かれた名刺をもらうのだった。
名刺に印刷された住所を頼りにお礼の菓子折りを持って行ったのが、次の週末。その後も飼ってる犬を預かってくれと口実をつけては仕事を依頼するために、万事屋を訪ねていた。


こういうのを一目惚れって言うんだろうな、とココアを抱えながらぼんやりと思った。他愛のない会話から銀さんの誕生日やら嗜好を知って、ますます気持ちが強くなっていったように感じる。
今、思い返してみると、重たい鞄がケーキに変わっただけで、私は半年前と同じことをしている。迷子になっていないだけで、目的地にたどり着けないという点では、全く成長していない。
困ったなぁ。私はココアを覗き込んで苦笑した。半年前は銀さんが助けてくれたが、さすがに今日ばかりは自分でなんとかしなければ。
底に溜まった濃いココアを飲み干して、会計を済ませ、私は店を後にした。


そうして、再び万事屋前。いや、さっきより前進している。なぜなら、あと指先一つでインターホンを押せる距離まで来たからだ。
何も、ためらうことなんてない。ケーキを渡して、お誕生日おめでとうございますって伝えるだけなんだから。深く息を吸い込み、吐き出す。腹に力を込めて、いざ、というその瞬間、前触れもなく引き戸が開かれた。
ひっという悲鳴をなんとか飲み込んで、私は人差し指を構えた間抜けな姿のまま固まってしまった。
「あれ、さん? どしたの、依頼?」
銀さんも私が扉の外にいたのことに驚いたのか、しばらく引き戸を開けたそのままの格好だったが、体を引いて、ここじゃなんだし、上がって、と声をかけた。
「いえっ、あのっ、今日は依頼ではなくてですね」
指を引っ込めて、両手でケーキを抱える。声が上擦りそうになるのを必死で抑える。
「私、今日が銀さんの誕生日だって聞いて。甘いもの好きでしたよね?」
口の中はからからに乾いているのに、掌はじっとりと汗ばんでいる。
「ケーキです。……よかったら、みなさんでどうぞ」
白い箱を差し出す。心臓はもはや早鐘のように打っていて、銀さんの顔をまともに見ることができなくなっていた。
「……あー、わざわざケーキ届けに来てくれたの?」
銀さんが戸惑ったように聞いた。やっぱり、迷惑だったろうか。厚かましい、勘違い、と思われるくらいなら、ここに来なかったほうがよかった。
「いえ、迷惑でしたら」
「ちょ、待てよ。んなこと言ってねーだろ」
ケーキを引っ込めようとしたら、腕を掴まれてしまった。そんなことしないで、もう解放してほしい。恥ずかしくて、顔から火が出そうになる。
「で?」
「え?」
「え、じゃねーよ。中身、なに」
「ショートケーキです……」
「ホール?」
「はい、小さいやつですけど……」
ケーキの箱が私の手から離れた。そっと銀さんを窺うと、箱を目の高さにまで掲げて、そーかそーか、ホールのショートケーキか、愛い奴じゃと呟きながら嬉しそうにしている。喜んでもらえたみたい。私は胸を撫で下ろした。
「じゃあ、私はこれで――」
「ちょっと待て」
掴まれた腕を引かれて、私はよろけてしまった。
「ケーキ、食ってけよ。せっかく俺の誕生日なんだから、とことん祝ってけや」
そう言って、銀さんはにんまりと笑った。