夜も眠らず泳ぎ続ける魚たち





極彩色の夢を見る





よく晴れた5月の朝。雲一つない空の下、洗濯物を干し終えた私は、うっすらと額に浮かんだ汗を手の甲で拭った。大量の真っ白な布がはためいている様は、実に壮観だ。
干しても干しても減らない洗濯物に、最初は絶望感すら抱くのだが、最後の一枚に辿り着いたときの達成感はなんとも言えない。上げ下げし続け、疲労がまとわりつく腕すら軽くなったように思う。
せっかくのいい天気なんだし、お布団も少し干そうかしら、などという欲も出てきてしまうほどに、青空が降り注いでいた。


視線を屋根の方角へ転じると、風をいっぱいに飲み込んで、元気良く空を泳いでいる鯉の姿が見えた。
――ウチは男所帯だしな。それにせっかくの縁起物を蔵にしまいっ放しじゃァ福も逃げていっちまう。
と、先日の大安の日に局長自ら汗だくになりながら取り付けたのだった。
それは、近藤さんが江戸に出てくる際に故郷から持ってきたものらしい。今更、鯉のぼりで喜ぶ歳でもねェだろう、と苦笑しながらも土方さんや沖田さんが懐かしそうに目を細めていたのが印象的だった。
鯉のぼりとは、出世の象徴とも言われる。確かに、田舎道場で暴れていた頃は、幕臣になるだなんて、想像すらしていなかっただろう。それを考えると、その鯉のぼりもなかなかご利益があるのかもしれない。
大きく腹を膨らませた鯉たちに、私はそっと手を合わせた。


「おい、
縁側から呼びかけられた私は、声の主の方へ振り向いた。そこには隊服姿の土方さんがいて、ちょっと来いと私を手招きしていた。なんだか嫌な予感がする。
「お前、今暇か? 暇だよなァ、空見てぼんやりしてたくらいだもんなァ」
そう意地悪く笑うと、答えも聞かずに土方さんは、私の手に幾ばくかのお金を握らせた。
「業務用マヨネーズを3,4本頼む。買い出しのついででいーからよ」
なぜ、こうも嫌な予感というのは的中するのだろう。私の顔は、多分思い切り歪んでいるだろう。
「業務用ってめちゃくちゃ重いじゃないですか。個人的な嗜好品だって自覚があるなら自分で買ってください」
「無理だな。俺ァ、これから見廻りなんだよ」
土方さんは煙を吐き出しながら、口の端を吊り上げる。そしてじゃァ頼んだぜ、とそう言い置いて、呼び止める間もなく身を翻して行ってしまった。――私と、私が握っているお金だけを残して。
しばらく呆然と突っ立っていたのだが、次第に腹が立ってきた。何が無理なものか。なんで私が土方さんのお遣いをしなくちゃならないんだ。見廻りの後にスーパーに寄るとか、今日一日くらいマヨネーズを我慢するとか、どうにでもなるじゃないか。
私は肩を怒らせて、土方さんと同じくその場を後にした。


そういうわけで私は両手にマヨネーズの入ったビニール袋をぶら下げて屯所への帰り道を歩いている。
洗濯物を干すときは、あんなにありがたかった日差しも、今は私の疲れを増長させるものでしかない。ただ歩いているだけなのに、もう全身から汗が吹き出している。しかも荷物は半端なく重い。この荷物の重量の大半が土方さんの私物かと思うと、イライラはさらに増してくる。このままこいつを投げ捨てて身軽になって帰ってやろうか、ともう何度思ったかわからない。
腕が痛い。指が千切れる。土方さんの鬼。マヨネーズにわさびを混ぜてわさびマヨネーズにしてやる、と口の中で文句を言いながら、よたよたと屯所へ足を運ぶ。
それでも結局、私には土方さんの頼みを断るなんてできっこないのだ。惚れた弱みってやつかね、と私は溜め息をついた。


やっとのことで屯所に帰り着くと、出入り口に十人ほどの女の人が群がっているのが見えた。事件かと思い、慌てて駆けつけたのだが、どうも様子がおかしい。群衆のうちの一人と目が合ったとき、私はようやく彼女たちの目的を悟った。しまった。思わず逃げ出そうとしたのだが、次の瞬間には私は彼女たちに取り囲まれていた。
「あ、あのすみません、ちょっと通して――」
私は必死になって人垣を抜けようとするのだが、その声は彼女たちによって、あっという間にかき消されてしまう。
土方さんって今いらっしゃいますか、ちょっとだけ取り次いでもらえませんか、見廻りですか、どこを見廻っていますか――。
口々に尋ね、私の行く手を阻む。さながら満員電車のようで、私は窒息するんじゃないかと半ば本気で思った。そんな私の思いも露知らず、彼女たちはひたすら私に詰め寄った。そして彼女たちはみな一様に、手に紙袋やら、何やらをぶら下げているのだった。
そうか、おそらく彼女たちは。気持ちはわからないでもないが、しかし。
「申し訳ありません。隊士の情報や居場所、見廻り時間といったものは、お教えすることはできないんです!」
人に溺れそうになりながら、なんとか声を張り上げる。私の訴えを聞きつけた彼女たちは、少しずつではあるが、熱を収めつつあった。
なぁんだ、そうなの? ホント、お役所って融通が効かないんだから、どうあっても教えてもらえないの。ぶつぶつと不満は聞こえるが、一時の異常な熱気は冷めていたようで、私はようやく一息つくことができた
「あの、じゃあこれを土方さんに渡していただけませんか?」
玄関に群がっていた女性のうちの一人からおずおずと差し出されたのは、綺麗にラッピングされた小振りの箱だった。まぁ、これくらいならと思い、手を出すと、それじゃあ私もと瞬く間に十以上ものプレゼントを押し付けられてしまった。
え、ちょっと待って。ただでさえ土方さんからの頼まれもので既に許容範囲ギリギリなのに。しかし彼女たちの鬼気迫る様子を目にすると、もう無理です、持てませんなんて、口が裂けても言えなかった。
そうして、両手いっぱいに荷物を抱えた私に、彼女たちは満面の笑みでよろしくお願いしますと頭を下げ、すっきりとした顔でさっさと引き上げてしまったのだった。


「ずいぶん遅かったじゃねーか。待ちくたびれたぞ」
どうにか荷物を捌き、フラフラになりながら廊下を歩く私にかけられた第一声がそれだった。だがしかし、その一言でいっきに疲れや不満が吹き飛んだように感じた。土方さんに文句の一つでも言ってやろうと、あんなに息巻いていたのにそれすらどうでもよくなってしまった。
「マヨネーズ抜きの晩飯になるかと思ったぜ。ちゃんと買ってきただろーな」
前言撤回。この人は私しなくてマヨネーズを待っていたのだ。えぇ、そんなの言われなくてもわかってましたとも。だから、今更落胆するだけ無駄なことなんだ。
「4本も買ってきたんですよ。ホントに重かったんですからね。あとこれ」
スーパーの袋と一緒に、先程彼女たちから預かったプレゼントも、まとめて土方さんに押し付けた。
「女の子たちから土方さんへ誕生日プレゼントです」
今日は5月5日のこどもの日。土方さんの誕生日だ。どうやって土方さんの誕生日を調べ上げたのかはわからないが、きっと勇気を振り絞って渡しにきたのだろう。
しかし土方さんはマヨネーズだけを受け取って、きびすを返して行ってしまった。
「え、ちょっとこれ持って下さいよ」
私は慌てて土方さんを追いかけるのだが、土方さんは歩みを緩めようともしない。語気を強めて呼び止めると、ようやく土方さんは嫌そうな顔をして振り返った。
「いらねーよ、そんなん。捨てろ」
「そんな、捨てろって」
辛辣な言葉に、私は思わず反発する。
「顔も名前も知らねェ女からの祝いだなんていらねーよ」
そう吐き捨てて土方さんはまた行ってしまいそうになる。
確かに土方さんはとても人気がある。見も知らない女性からの贈り物なんて、きっと腐るほど貰っているのだろう。でも、あの玄関先での一途な彼女たちの姿を目にしてしまった私には、これをそのまま捨てるなんてことはどうしてもできなかった。
「でも、なんで私が」
「どうせ捨てちまうんだから、誰が捨てたって同じだろ」
その一言には、さすがの私も腹が立った。人の気も知らないで、この人はなんて無神経なことを言うのだろう。
「だったら」
私はプレゼントの山を半ば無理矢理、土方さんに押し付けた。
「どうせ捨てるんなら、土方さんが始末して下さい。私はこれを渡してくれって頼まれただけですから」
そうして私は土方さんが引き止めるのも聞かず、さっさとその場を後にした。
きっと土方さんは、あのプレゼントを封も開けず捨ててしまうのだろう。いらないというなら仕方がない。私が止めたって、あの人は聞く耳持たないのだから。
でも、それでもあのプレゼントの始末を私に押しつけなくたっていいじゃないか。私が土方さんに対して抱いてる気持ちと、同じ思いが詰まった贈り物を、どうして私が捨てるなんてできるだろう。
土方さんが見えなくなるところまできて、私はようやく強く握り締めていた両手を開いた。掌には、荷物を持った跡がはっきりと残っていた。彼女たちの、プレゼントがとても重かったせいだった。


戦争のような夕飯と、その後片付けを終えて一息ついた頃には、もう時計は11時半を指していた。あと30分で土方さんの誕生日が終わってしまう。些細なことで言い争いをしてしまって、そのまま謝る機会もなくて、おめでとうございますのたった一言も言えずに、一日が終わってしまう。
私はため息をつきながら、今日一日ずっと持ち歩いていた、小さな包みを懐から取り出した。誰もいない食堂で、頬杖をついて目を閉じる。
休日を丸一日潰して、適当な店を片端から覗いて、やっと買い求めたのがこれだった。高価すぎず、かといって安すぎず、実用的なものといったらこれくらいしか思いつかなったのだ。飾り気がなくて、手の中に納まる大きさで、これならきっと邪魔にはならないだろうと、散々迷って決めたのだ。
日頃、お世話になっているからと、渡してしまえばいいやと思っていたのだが、なかなか切り出すことができず、あんなことがあって、結局渡せずじまいになっている。
無駄に反発なんかしなければ、渡すことができたのだろうか。でも焼却炉の中で、彼女たちのプレゼントと一緒に私のこれも燃やされてしまうかもしれないと思うと、とてもじゃないけど、渡すことなんてできなかった。


指先で、ラッピングされた包みを弾きながら、またため息をつく。プレゼントを渡せないにしても私がこれを持っていても仕方がないんだよなぁ。いっそ松平長官にでもあげてしまおうか、とも思う。一年に、たった一日かしかない特別な日だったのに、よりによって怒らせてしまうだなんて。プレゼントを渡せたとしても、不愉快に思いをさせてしまうのなら意味がないし、そんなの私だって悲しい。いらない、捨てろだなんて言われてしまったら、私はきっと立ち直れなくなってしまう。
暗い気持ちでぼんやりしていたから、私はすぐ背後に人が立っていたことに全然気がつかなかった。何度目がわからないため息をついたとき、私の視界の隅を何か黒いモノが横切った。
「なんだ、コレ」
気がついたときにはもう、その小さな包みは土方さんの手の内にあった。私は慌ててそれを取り返そうとするも、土方さんは難なく私をかわす。
「なんでもないです、返して下さい!」
「ずいぶん軽いな。中身、なんだ?」
なんでもないですってば、と手を伸ばすも土方さんが包みを高く掲げてしまうので、一向に取り戻せない。早く、返して。私はますます焦る。捨てろ、だなんて聞きたくないし、土方さんの迷惑そうな顔も見たくない。傷つきたくない。私は臆病者なんだから、もう放っておいて欲しい。
「教えてくれたら、返してやるよ」
なんでこうも意地の悪いことを言うのだろう。いじめっ子とそう変わらないじゃないか。
「なんで土方さんに教えなくちゃならないんですか」
「あァ? だって気になるじゃねェか。いーだろ、減るモンじゃねーし」
そんなことはない。私はこんなにも心と神経をとをすり減らしているというのに。あぁ、全くなんでこんなことになってしまったんだろう。私はただ、土方さんの誕生日をお祝いしたかっただけなのに。
いい加減、空しくなってきて、私は包みを取り返そうとするのを諦めかけている。土方さんはというと、相変わらず包みをひっくり返してみたり、耳元で振ってみたりしている。
「で、コイツはなんなんだ?」
「……それは、土方さんへの誕生日プレゼントです」
私がふて腐れて渋々答えると、土方さんの動きがピタリと止まった。その一瞬の隙をついて、私は土方さんからプレゼントを奪い返した。
「ちょっ、おい、何すんだよ」
「でももう土方さんにはあげません。あげても捨てられちゃうみたいなんで、他の人に差し上げることにしたんです」
そう言って、その小振りな包みを両手でしっかりと抱き締めた。こんなに冷たくて、意地悪に人に、もうプレゼントなんかあげてやるものか。こんなことになったのも、全部土方さんのせいだ。捨てるだなんて、酷いことを言うから。意地の悪いことを平気でやってのけるから。
プレゼントなんて、買わなきゃ良かった。お店で贈り物を品定めしているときが一番楽しかった。それで満足してれば良かったんだ。
後悔の波が次々と押し寄せて、私は溺れそうになる。悔しくて気まずくて悲しくて、私は俯いたまま顔を上げることができなかった。



強くプレゼントを握り締めた手に、土方さんの大きな手が添えられた。驚いて思わず後ずさるも、背後には机があり、ちょうど土方さんと挟まれるような形になってしまった。
「俺ァ、名前も知らねェ好きでもねェ女からのプレゼントなんていらねーんだよ」
土方さんは私の後ろの机に手をつく。あっという間に檻に閉じ込められてしまって、気がついたときにはもう身動きが取れなくなっている。身体も、心もがんじがらめだ。苦しいのに心地よい。いつでも逃げられるのに、いつも追いかけている。私は重症だ。
「だから俺ァ、からのプレゼントが欲しいんだよ」
この意味わかるな、とそう言うと土方さんはようやく私を解放した。いつの間にか、プレゼントは再び土方さんが手にしていたが、それを追求する気力は、もう私には残っていなかった。
「なァ、。中身なんだ?」
土方さんは楽しそうに聞いてくる。その質問は今日何回目だろう。自分で開けて確かめてみればいいのに。
「……携帯灰皿です」
私はもう息も絶え絶えで、血圧も心拍数も限界値ギリギリだ。
「携帯ってェコトは持ち歩けるんだな」
「そう、です」
「肌身離さず、な」
プレゼントを選んだ意図を見透かされて、私は赤面した。確かに使ってくれればいいな、とは思っていたけれど、そんな大それた望みを持っていたわけではなかった。

驚いて弾かれたように顔を上げると、思った以上に近い位置に土方さんが迫っていた。私の頬には温かいものが触れている。それが、土方さんの右手だと認識した途端、私の思考は一切の活動を停止した。
「ありがとう、な」
未だかつて、こんなに優しい目をした土方さんを見たことがあっただろうか。土方さんの右手の親指が私の頬を撫でる。心臓が破裂しそうだ。私は今日なんであんなに怒ったり悲しんだりしていたのだっけ。何も思い出せないし、何も考えられない。頬に在る掌の温もりだけが唯一の事実で、胸の内に渦巻く名も付けられない感情だけが真実だった。
このまま目を閉じて浸っていたいし、ずっと土方さんを見ていたい。ようやく取り戻しつつある思考も、散漫になり勝ちでちっともまとまろうとしない。
ふと、手が添えられた方とは反対側の頬に、なにか柔らかいものが触れた。近すぎる距離、視界をかすめる黒髪、ゆっくりと離れていく横顔。驚くこともできないほどに麻痺してしまった私を、土方さんは喉の奥で笑い、明日も早いんだからさっさと寝ろよ、と言って何事もなかったかのように食堂を後にした。


時計の鐘が、日付が変わったことを知らせる。それでも私は指一本動かせないで、その場に立ち尽くしていた。
今起きたことを理解しようとしてはいけない。私の中に納めるには、受け止めるには大きすぎる。とりあえず息をして、心臓を動かして日常に戻らなくてはいけない。既に真っ直ぐ歩くことも困難で、私は机や椅子に何度もぶつかりながら、なんとか庭にまで辿り着いた。
庭には、夜の海を泳ぐ鯉のぼりが勇ましく尾鰭をはためかせていた。来年も再来年も、またその次の年も私たちはこの日を迎えることができるだろうか。月日を重ねて、少しでも前に進んで。
まだ冷たい風が、私の頭を少し覚ました。土方さんたら、早く寝ろですって。この状態で寝られると思っているんだろうか。ここまで私をかき乱しておいて。
不意に涙が出そうになる。胸が苦しくて堪らない。でもそれは、昼間に感じた怒りとはまた全然違った。瞳を閉じて、指を折り重ねるようにして両手を合わせる。心に浮かぶのは、祈りか感謝か。
うっすらと微笑んでいるようにも見える鯉たちが幸せな夢を見ればいいと、それだけを願った。