想い続けるには長く、思いを伝えるには短すぎた時間





古びたロッカーに詰め込んだ3年間





グラウンドを乾いた風が駆け抜け、砂埃を舞い上げた。人気の無いトラックはいつにもまして広く、遠く見える。
私は蛇口をひねり、両手で水を掬っては、顔に叩きつけるように浴びて汗を流した。火照った頬も手も、あっというまに冷水に体温を奪われて、私は思わず身震いした。
久しぶりに行った部活は、やはりというべきか居心地が悪かった。走っていれば気も紛れるかとも思ったが甘かった。
仕方がない。自分はもう3年生で、夏に部活を引退した身なのだから。ふらりと戻ってきたところで居場所はすでにないのだ。
水気を拭ったタオルに顔を埋めて目を閉じる。すると、真っ直ぐに続くコースが、白いゴールのラインが、後ろに流れていく景色が、次々と浮かんでは消えていった。
今日は、先月受けた全国模試が今までで一番良かったので、自分にご褒美と称して30分だけ部活に参加したのだった。ただ、それだけ。もう二度とこのトラックを走ることはないだろう。
ふうと溜め息をタオルに包み込み、私は顔を上げた。風邪が汗ばんだ身体から根こそぎ熱を吹き飛ばし、私は鳥肌を立てた。
こんな時期に風邪なんかひいちゃ洒落にならない。帰って勉強しよう。私は制服に着替えるべく更衣室に向かった。


ジャージからセーラー服に着替えて、私は部室を後にした。問題集やら参考書を詰め込んだ、重い鞄を肩に掛けてゆっくり歩く。
太陽はもうほとんど沈んでいて、わずかに西の空をオレンジ色に染めてあげているだけだった。
今日が終わる。私たしは一日一日、入試に近づいて、そして卒業式を迎える。この制服もあと何回、袖を通すことができるだろう。そう思うと、急に切ない気持ちがこみ上げてくる。私は3年間使い続け、ところどころほつれた鞄を両手でしっかりと持ち直した。


「あれ、?」
突然呼びかけられて、私は振り返った。後ろにいたのはZ組の沖田君で、彼はよォと片手を上げてこちらに歩いてきた。
「今帰りか?」
「うん、少し部活に顔出してきたんだ」
なんでィ、受験生のクセに余裕じゃねーか、と彼は舌打ちした。
「沖田君は? 今まで勉強してたの?」
「俺ァ、委員会会議でさァ。ったく、こんな時期に会議とかありえねー」
沖田君は壁にもたれて愚痴をこぼす。だんだん暗くなっていく景色の中、寒そうに首をすくめた沖田君の白い吐息が薄く消えていった。
沖田君とは、一度も同じクラスになったことがない。なのに、いつのまにか顔を突き合わせば言葉を交わすほどの仲になっていた。
最初はずいぶん可愛らしい顔をした男の子だと驚いたが、話してみると、彼ほど意地の悪い子もいなかった。“変人揃いのZ組”という噂もあながち間違ってないと、納得したのだ。
はスポーツ推薦とかは考えてねーの?」
「別に陸上で身を立てたいとかは思ってなくて」
「そーいうもんなのか」
「陸上は楽しくなきゃ続かないよ。もちろん結果も大事だけど、結果だけを追い求めて走るのは性に合わないから」
なるほどねー、と沖田君は自分で聞いておきながら関心のなさそうな相槌を返してきた。


冷たい、乾いた風が吹いてマフラーをはためかせた。西の空にもすでに陽の欠片は見当たらず、暗い群青が世界を支配する。
沖田君の表情も、もうよく見ることができない。学ランの黒が景色に溶け込んでしまって、彼の境界線すら判別しにくくなっている。
「で?」
「ん?」
沖田君がおもむろに口を開く。
「このまま卒業しちまうつもりなのか」
「……できれば一つくらい合格通知をもらってから卒業したいね」
彼の質問の意図が見えず、私はとりあえず無難な答えを返す。しかし彼は長いため息をつくだけで、少しも笑わない。暗闇の中、沖田君の両の瞳が光った気がした。
「俺ァこのまま土方に何も伝えずに卒業すんのかって聞いてんだよ」
沖田君が彼の名を発した時、自分の心臓が大きく脈打ったのを感じた。
どうしてわかったのだろう。沖田君とも、彼とも一度も同じクラスになったことなんてないのに。誰にも、仲の良い女の子の友達にさえ、自分の想いを打ち明けられなかった。私はこの3年間、彼とまともに話しをしたことすら叶わなかったのだ。
「見てりゃァわかんだろ」
もどかしいったらねーや、と沖田君は一言で片付けてしまったけれど、私はまだ衝撃から立ち直れずにいた。耳が熱い。きっと、私は夕焼けみたいに赤くなっている。暗くてよかったと、よく回らない頭でそれだけを考えることができた。


短距離走のあとみたいに鼓動が早い。首から上に充血してしまったようにのぼせて、そのくせ指先なんかはひどく冷たい。掌は汗ばんでいるのに、口の中は乾いて引きつれてしまっている。
「で、どーなんでィ」
沖田君は畳み掛ける。彼は壁にもたれたまま一歩も動いていないのに、妙な威圧感があり、私は思わず後ずさった。
「……別に、どうもないよ」
私は観念して口を開いた。沖田君は何も言わない。
「……だって、何もないし」
「好きなんじゃねーのかよ」
かけられた言葉が優しさを帯びていて、私は少し安心した。威圧感も、さっきよりは和らいでいる気がする。
「でも土方君は私のことなんか知らないと思うよ」
すると沖田君は意外そうな顔をした。
「どうしてそう思うんでィ」
「今までほとんど接点なんてなかったからね」
それでも、一度だけ土方君と話をしたことがある。去年、風紀委員の友人が風邪で欠席したとき、私が彼女の代理で委員会会議に出たことがあった。
そのとき前に座っていた男の子が、たまたま土方君だった。
配られたプリントを後ろの人に回すなんて学校ではありふれた風景だったのに、土方君は紙の束を渡すとき私に、お前、誰かの代理、と聞いてきた。うん、そう、友達が熱を出しちゃって。私はそれだけのことを答えるのに一生分の勇気を使った気がした。


今でも鮮明に覚えてる。少し振り向いたときの顎のラインや、真っ黒な髪や、プリントを持っていた大きな手なんかが昨日のように思い出せる。遠くから見ているだけだったのが急に近づいたものだから、一言声を聞いただけで目眩がしそうだった。ましてや気持ちを伝えるなんて、考えただけで足がすくみそうになる。
「じゃあは思いを胸にしまって、そんなちっぽけな思い出に満足して卒業するわけか」
沖田君は心底呆れたといったふうに肩をすくめた。
「うん、このまま卒業だよ」
「まったく、無欲というか淡白というか」
沖田君はまた長いため息をついた。そして意味ありげににやりと笑うと、とんでもない台詞を言い放った。
「だそうですけど、どうしやす、土方さん?」
私は驚いて勢いよく振り返った。沖田君が声をかけた先には、闇よりも黒いシルエットが浮かんでいた。その姿を確認するや否や、私は全力で走り出した。


どうしよう。聞かれてしまった。気づかれてしまった。このまま、何も言わずに、何も伝えずに卒業するつもりだったのに。
後ろで慌てて呼び止めるような声が聞こえたけれど、振り向くことなんてできなかった。ただひたすら走って走って、がむしゃらに足を動かした。
どこをどう走ったなんて覚えていない。重たい鞄や、厚いコートが体にまとわりついて、思ったように前に進めていないように感じて、ひどくもどかしかった。
とうとう足が動かなくなって、走るのをやめた頃には、膝が笑ってしまってどうしようもなかった。耳の奥で、血が音を立てて体中を巡っているのが聞こえて、呼吸器はひきつれたように痛かった。
無我夢中で走っていたのに、息を整えて辺りを見回してみると、そとは私のよく知った場所だった。


校庭の少し奥まった場所に立っている大銀杏の木。部活の休憩時間のたびに、いつもこの木の元に来て、一息ついていた。
今は枝だけの寂しい姿をさらしているが、夏には青々とした葉を繁らせて涼しげな木陰をつくり、秋には金色の美しい葉を散らしていた。
四季の移り変わりを如実に伝える大銀杏も好きだったが、何よりもこの場所からは道場の入口がよく見えた。
土方君は剣道部に所属していた。道場は剣道部や柔道部が部活動で使っていて、その出入口がちょうどここから見えたのだった。運がよければ、一週間に一回、ダメなときは一ヶ月に一回もなかったけれど、土方君が部活に行く姿を見ることができた。
もちろん、私も部活があって、ずっとこの場に入り浸ることはできなかったけれど、一目見られれば一日中幸せな気分でいられた。


我ながら、ささやかな喜びだったと思う。休憩時間のたびにここまできて、現れるどうかもわからない好きな人を待つなんて。こんなことを飽きもせず3年間も続けていたなんて、自分でも驚きだ。
沖田君は私のことを無欲だと言っていたけれど、実際はそんなキレイなものじゃなかった。私はただ、臆病なだけだった。あと一歩どころか半歩も踏み出せないで、ずっとその場で足踏みしていただけなのだ。これで満足したと、自分に言い聞かせて、気持ちに蓋をした。眺める以上のことをできない自分を認めなかった。
やっぱりこのまま卒業しよう。土方君に、私の気持ちを知られてしまったけれど、あと一ヶ月、何食わぬ顔でなるべく土方君に会わないように過ごそう。それで、この私の一方的な恋も終わる。ここに来ることも、もうないだろう。
ぼんやりと道場の入口の方を眺めてみたけれど、真っ暗で何も見えなかった。未練がましいなぁ。苦笑して無理やり目を逸らした。帰って勉強するんだ。鞄を肩に掛け直したとき、思い切り左腕を掴まれた。


「やっぱここにいたか」
肩で息をしている土方君がそこにいた。反射的に腕を振りほどこうとしたけれど、土方君にしっかり捕まってしまって、とても逃げられそうになかった。
「走って逃げ切られるとは思ってなかったぜ。さすが、3年間陸上やってただけあるな」
なんで、私の部活なんか知ってるの。そんな疑問すら思いつかなかった。これ以上、彼に関わらずに卒業しようと心に決めたばかりなのに。頭は大混乱でどうするべきか、なにを言うべきか、ちっとも冷静になることができなかった。
「ごめん、なさい」
「はァ? なんで謝るんだよ」
「変なこと、言ってしまって。言うつもりなんか、なかったんだけど。だから今日のことは全部忘れてくれたらいいから」
なにを言っているのか、自分でもよくわからなくなってくる。ただ、一心に早くこの場から離れたいと思った。
「断る」
私の願いはたった一言で却下された。恥ずかしくて、顔を上げることができない。


「お前、よくこの場所に来てたよな」
土方君が落ち着いた声でそう言った。その声を聞いて、少しずつ頭が冷えてきた。なんでだろう、土方君は私のことなんか全然知らないと思ってたのに。
「この場所、道場の窓からよく見えるんだよ」
なんてことだ。こっそりと見ていたつもりで、実は土方君から丸見えだったなんて。穴があったら入りたいとはこのことだった。
「だから俺もずっとのことを見てたんだよ」
はじかれたように顔を上げると、真剣な眼差しの土方君と目が合った。
「俺は、が好きだ」
遠くから見ているだけでいいと思っていた。それでも、手を伸ばせば触れる距離にいる、名前を呼べば答えてくれるこの幸せとは、比べるべくもなかった。
息が詰まるほどの感激も、涙を流すくらいの喜びも、土方君がいてくれるからだ。一歩踏み出したその分、彼に近づける。帰るぞ、土方君は私の手を引いてくれる。
言葉に変換しきれない気持ちを、少しずつほぐして、彼に伝えよう。3年もの時間を、土方君に届けられるように。