それは愛情以外の、何物でもない。





君に不服を申し立てる





「なんか、いつもと違わねェか」
その副長の一言に、俺は凍りついた。
普段通りの、なんら変哲もない朝の風景。昨日も同じ、明日も同じ、はずだった。
俺以外の他の隊士は、みんな平和に朝食を摂っている。ところどころでおかずの争奪戦が繰り広げられているようだが、それはもう日常茶飯事だ。ただ、俺だけが、嫌な汗をかいている。
意を決して副長を盗み見ると、俺の真正面に座っているその人は、じっと自分の手元のマヨネーズが山のように盛ってある皿を見つめていた。俺にはいつもと同じに見えるのが、副長に限ってはそうではないのだろう。
ふ、と副長が前触れもなく、俺の方に視点を転じた。ヤバい、と感じて顔を伏せるその直前、ばっちりと目が合ってしまった。あの鋭い人が不審に思わないわけがない。
ヤバい。どれくらいヤバいかっていうとマジでヤバい。
「おい、山崎――」
どやされる、と身を竦ませたその瞬間、頭上から天使の声が響いた。
「いつも通り、ですよ」
ことり、と音を立てて、さんは卓の上に人数分の味噌汁を置いた。
さんは屯所に住み込みで働いている女中のうちの一人で、炊事、洗濯、掃除など、このむさ苦しい男所帯の家事を一手に引き受けてくれている。
副長と好い仲だともっぱらの噂で、二人ともそれらしい雰囲気は醸し出しているのだが、監察の俺ですら先日まで直接聞いて確かめたことはなかった。――副長が恐すぎたから。
「そうか? いやでもなんか変じゃねーか?」
「味付けも特に変えていませんよ」
「いや、そーいうんじゃなくてだな」
さんはにこやかな、あくまで柔らかい口調で副長に応える。一方、俺はというと緊張してしまって体の動きもぎこちなくて、味噌汁すら上手く飲み込めずにいた。
どうか、バレませんように。そんな俺の切実な祈りなんか、どこ吹く風で、目の前の二人は穏やかに会話を重ねていった。
「マヨネーズの味が、いつもと微妙に違うんだよ。色とか艶なんかも、心なしか違う気がする」
副長の言葉に、さんは目を見開いて大袈裟に驚く。
「あら、土方さんたらマヨネーズの色艶なんか見分けがつくんですか。私がいくら髪型を変えても、ちっとも気がついてくれないくせに」
「ちょっ、お前、こんなところで、そういうことを言ってんじゃねーよ」
慌てた様子の副長に、さんは可笑しそうに笑う。
「ともかく、早く召し上がって下さい。ご飯が冷めてしまいますから」
そう言ってさんは笑顔を残し、台所に戻っていった。副長も釈然をしない表情で、味噌汁を啜り、やはり首を傾げながら残りの朝食を平らげた。
なにはともあれ、第一関門は無事に突破したのだった。


「今朝は危なかったですね」
さんはタオルを干す手を止めて苦笑した。
「本当に。全く、土方さんときたら妙なところで鋭いんだから」
俺が籠に入っていたシャツの皺を伸ばしてさんに手渡すと、彼女はありがとうございますと礼を言って、それらを手際よくハンガーに掛けていく。
「で、結局のところ、アレはなんだったんです?」
俺が尋ねると、さんは悪戯っぽく笑って、内緒ですよと念を押した。
「アレは正真正銘、マヨネーズですよ。ただし、カロリーがいつもの半分なんです」
なるほど、と俺は納得した。それならば俺もスーパーで見たことがある。マヨネーズを普段から過剰摂取している副長にそれを勧めたら、そんなのマヨネーズじゃねェと、ひどく怒られたのだった。
「でもよくバレませんでしたね」
するとさんは少し得意げに種明かしをしてくれた。
「カロリー半分のマヨネーズって、キャップが黄緑色なんですよ。そのキャップをいつもの赤いのに取り換えただけなんです」
種、というほどものもでもない。小細工といったほうが適切かもしれない。それでも見た目がいつも通りというだけで、人は簡単に騙されてしまうのだ。
「私にはマヨネーズの区別なんてつきませんけど」
おそらく、今朝のことを揶揄して言っているのだろう。確かに味はともかく見た目でマヨネーズを判断できるなんて、世界広しと言えど、副長以外にそうそういないだろう。
「問題ないなら、しばらくこのままで行こうと思うんです」
だから山崎さんも誰にも言わないで下さいね、とさんは俺に懇願したのだった。


そもそもなんでこんなことになったのか。話は数日前に遡る。
夜もずいぶん遅い時間だったと思う。俺が水でも飲もうと思って台所に向かったところ、そこには難しい顔をしたさんが腕組みをしながら献立を睨んでいたのだった。
「どうかしたんですか?」
世の中の母ちゃんというものは、日夜晩ご飯の献立に悩まされているものらしい。毎日、俺たちの食事を用意してくれるさんは、既に俺たちの母ちゃんと言っても過言ではないだろう。聞き分けの悪い、デカい子どもがこんなに多くちゃ、その苦労も並大抵なものではない。
なにかあったんですかと聞けば、母ちゃん、もといさんは困ったように笑った。
「いえ、実は」
さんの話しをまとめると、こういうことだった。
先日、真選組が受けた健康診断の結果が、最近返ってきたらしい。みんなおおむね健康、との結果が出たのだが、一部はやはり血圧やコレステロール値が高め、とのイエローカードを食らったようだ。
俺たちは職業柄、生活が不規則になることが多い。だから、今まで以上に食事に気を使って、健やかに過ごせるよう頭を悩ませているのだ――。
「これまでも、一応栄養価とかは考えていたんですけど。でも、ちょっと不十分だったかなって思って、もっと徹底することにしたんです」
さんの話を聞いて、俺は驚いてしまった。俺たちが、ただ腹を満たすために食っていた食事は、計り知れないほどの優しさ、愛情といったものが詰まっていたのだ。
「特に、土方さんの結果が芳しくなくて」
さんは唇を尖らせて、ううむと唸る。確かに副長のあの味付けは尋常じゃない。多けりゃいいってもんでもないだろうに。
「原因は明確なんですけど、私がマヨネーズを控えめにしてくれなんて言っても、あの人は聞いてなんかくれないでしょうし」
だから今、対策を練っているんです、とさんは拳を握り締めた。
対策、なんて果たしてあるのだろうか。
俺は副長の作り上げる、黄色い物体に思いを馳せた。副長の、マヨネーズに対する執着は常軌を逸している。こういっちゃなんだが、献立の工夫なんてさんのささやかな努力は焼け石に水だろう。そして、さんの言う通り、副長は俺たちの意見や忠告なんてものに、耳を貸すことはない。俺なんかが下手に注意したら、タコ殴りにされかねない。
結局その日、俺たちは有効な手だてを思い付くこともなく、二人して溜め息をついたのだった。


さんが副長のマヨネーズをすり替えてから数日が経った。
危ない橋を渡っているのは、重々承知だったが、これ以上の作戦が思い付かなくて、つい日々を過ごしてしまったのだ。
そして、事件は起きた。


その日は朝からいつもと違う空気が流れていた。屯所が静かすぎるのだ。嫌な予感とある程度の覚悟を決めて、食堂へ向かうと、その入り口にたくさんの隊士が群がっているのが見えた。
ゴツい彼らの身体をかき分けて中を覗いてみると、副長とさんが向かい合って仁王立ちしていた。
「こいつァ、どういうことだ」
副長が地を這うような低い声でさんな尋ねる。いや、尋ねるなんて生易しいものではなく、尋問に近い。しかも、とてつもなく恐い。
「どうって何がです?」
さんは副長の質問に、表情こそ険しいものの、落ち着いて答える。声を震わせることもないし、副長から目を逸らすこともしない。
「俺ァ、マヨネーズを替えろなんて頼んだ覚えはねーぞ」
あぁ、やっぱりさんの作戦は露見してしまったのだ。
でも、彼女のこの行動は副長のためを思ってのものだったのに、副長だってそんなに怒らなくったっていいじゃないか。とは思うものの、やっぱり俺は副長が恐ろしくて二人の間に割って入ることなんてできないのであった。
さんは女性で、おそらく屯所の中では一番非力な存在なのに、ただ副長を気遣うあまりに副長と対峙しているのだ。
「それはそのはずです。私の独断で替えましたから」
でもさんもわざわざ副長を煽るようなことを言わなくてもいいと思うんだけどォ! 副長のこめかみに、青筋がたったのが見えた。俺は掌に汗を握って、固唾を飲んで成り行きをひたすら見守った。
「戻せ」
「嫌です」
二人の間には、一触即発の空気が流れている。俺だって幾度も修羅場をくぐり抜けてきたが、それに匹敵するほどの緊張感が辺りを支配している。食堂の様子を覗き見ている隊士はみんな、息を潜めて身動き一つできないでいた。
副長は怒りながら、それでも静かにさんに言い含めるように詰め寄った。
「勝手なことしてんじゃねェ。自己管理くらいできてんだよ。わかったら――」
「なにが自己管理ですか!」
先に爆発したのは、さんの方だった。不意を衝かれた副長は、一瞬言葉を詰まらせる。その隙を突いて、さんはさらに言い募った。
「自己管理ができているなら、健康診断であんな結果を出してくるわけ無いでしょう! マヨネーズもタバコも減らせない人が偉そうなことを言わないで下さい!!」
俺は、さんが声を荒げているのを初めて聞いた。普段は温厚でいつも笑顔を絶やさない彼女がこんなに怒るなんて、よほど腹に据えかねていたのだろう。
「お、おい」
「私が心配して注意しても土方さんはちっとも耳を傾けてなんてくれないじゃないですか! どんなに私が食事に気を使っても土方さんは一瞬にして駄目にしちゃうから、苦肉の策でこうなったんですよ!!」
副長はさっきまでの怒りはどこへやら、本気でうろたえている。落ち着けとか、わかったからなどと慰めてはいるが、さんは噴火し続けた。
「確かにお仕事は忙しくて大変なんでしょう。昼も夜も江戸の平和のために働いていらっしゃるんですから。でも、土方さんのお仕事が江戸の平和を守ることなら、女中である私の仕事は真選組のみなさんの健康を健やかに保つことです! それが必要ないというなら、私はもう土方さんのことなんか知りません!!」
そう宣言すると、さんは前掛けを副長に投げつけて、食堂から走り去ってしまった。


そうして後に残された俺たちは、それはそれは気まずい飯を食べる羽目になった。副長も憮然とした表情で箸を進めていたが、さすがにこの空気に耐え切れず、自分からさんのところまで出向いて謝りに行ったらしい。その際、さんから一週間に摂取できるマヨネーズの量を提示され、それを一ヶ月守るように、と約束させられたのだそうだ。
「コレステロールカットのマヨネーズを週に3本まで。今までは普通のマヨネーズを一日一本近く摂っていたから、大した進歩ですよね」
そうさんは笑いながら俺にコッソリ教えてくれたのだった。鬼の副長も、惚れた女性には敵わないということか。上機嫌なさんに、俺は良かったですね、と祝辞を述べた。


そうして食生活を改めてから一ヶ月ほど経ったある日、副長はどうだと得意気に一枚の紙切れをさんの眼前に突きつけた。
「これは?」
「健康診断を受けてきたんだよ」
どうやらこの紙はその結果らしい。副長から紙切れを受け取ったさんは、その健康診断の結果とやらを食い入るように見つめた。
「土方さん、これ」
驚いて目をいっぱいに見開いてさんは副長を見上げた。副長は試験で満点を取った子どもが自慢するように胸を張る。
「たいしたモンだろ? 俺だってやればできるんだよ。なァ、だからそろそろ――」
「土方さん、よく頑張りましたね! 基準値まであと少しじゃないですか! この調子でちゃんと摂生を続けましょうね!!」
「え、おい――」
「私も頑張って食事の用意しますから」
「ちょ、待てって――」
「ね?」
にっこりと綺麗に笑うさんに、副長はわかりましたと素直に頭を下げるしかなかった。
まぁ、いいんじゃないかな。さんは幸せそうだし。なんだかんだ副長だって、彼女が好きで堪らないんだし。あんなに優しくて、楽しそうな副長なんて、さんと一緒にいるときくらいしか拝めないものな。
お二人とも、どうぞ末永くお幸せに。
俺は二人に気付かれないよう、後ろからこっそりと手を合わせたのだった。