私があなたの為にできることといえば 護られる男 食堂の時計が十二時を報せる鐘を響かせた。十二時といっても正午ではなく真夜中で、辺りは昼間の喧騒が嘘だったかのように静まり返っている。普段なら寝ている時間だが机の上にうず高く積まれた書類の山は、それを許してくれそうにない。 今日だってせっかくの非番だったというのに、食事と風呂以外はほとんど部屋に籠もって書類と格闘していたのだ。肩はガチガチに凝っているし、右腕もそろそろ腱鞘炎になるんじゃないだろうか。見廻りに行ってたほうがまだ楽だ。 俺は終わりの見えない厄介な仕事を睨みつけて、煙と一緒に溜め息を吐き出した。 眠気覚ましに水を飲んで、顔を洗うことにした。冷たい水を顔に叩きつけるようにして浴びると、いくらか頭がすっきりしたように感じた。しかし、洗面所の鏡に映った顔は酷く疲れている。昼や夜の見廻りといった通常の隊務に加え、毎日遅くまで、下手をすれば朝方まで書類にかかりきりなのだ。 真選組の副長ともあろう男が、こんな紙切れに振り回されてんじゃァなァ。思わず俺は苦笑を漏らした。 つい先日、真選組に崩壊の危機が迫った。俺は情けなくも、妖刀などというわけのわからないモノに取り憑かれ、その間に、伊東と攘夷志士が手を組み氾濫を企てたのだ。 幸い、クーデターは成功しなかったが、奴らの企みを未然に防ぐことができなかったのは、副長である俺の責任だ。こんなことは二度と繰り返してはならないし、繰り返すつもりもない。そのためには、まだ事件の記憶が新しい今のうちに、より強固で強力な組織を作り直す必要がある。やるべきことは、それこそ山のようにあるのだ。 仕事が終わらねェなんざ、腑抜けたことを言っている場合じゃねェよなァ。今、この時期に自分が踏ん張らなくては他の平隊士に示しがつかない。鏡の中の、顔色の良くない自分に喝を入れて、残っている仕事を終わらせるべく、俺は自室へ引き返した。 洗面所から戻ってみると、部屋の中からなにやら物音が聞こえた。また総悟の野郎がイタズラしてやがるのか。総悟の悪ふざけは本当に性質が悪い。座布団にいくつもの剣山が仕掛けてあったり、押入れを開けた途端、矢が飛んできたりするのだ。見廻りや討ち入りをしているよりも命の危険が多いように感じるのは、おそらく気のせいではないだろう。 この忙しい時期にアイツはいったい何をしているんだ。そもそも俺が忙しいのはアイツが山のように始末書をこさえてくるくせに、全然仕事をしないからじゃないのか。寝不足や疲れも手伝って、考えれば考えるほど腹が立ってくる。どうせ聞かないだろうが、一度きつく叱っておこうと勢いよく部屋の戸を開けた。しかし部屋の中で驚いて佇んでいたのは、総悟ではなく、女中のだった。 「あ、あの」 はひどくうろたえていた。そりゃあ、俺が鬼のような形相で思い切り戸を開けたのだから、怖がられるもの無理はなかった。 「差し出がましいかとも思ったんですけど、お茶と、あと灰皿を掃除でもと」 はずいぶん慌てていたが、俺は俺で予想もしていなかった侵入者にかなり驚いていたし、総悟を怒鳴りつけるつもりだったから拍子抜けしてしまった。 「お前、まだ起きてたのか」 「あ、はい、もう寝るつもりだったんですけど、土方さんのお部屋に明かりが点いているのが見えたものですから」 それきり、俺は戸を開けたままの格好で、は吸い殻で山盛りになった灰皿を抱えたままお互い会話もなく立ち尽くしていた。気まずい沈黙が辺りを支配する。 「余計なことでしたら、すみませんでした」 に深々と頭を下げられ、俺は慌てた。俯いているため、の表情を窺うことはできないが、その声は張りを失っていた。 「あ、いや、そのなんだ」 上手く口の回らない自分が恨めしい。こんなとき総悟ならなんと言うだろう。近藤さんだったら、素直に謝っているだろう。 「……驚かせて、悪かった」 「いいえ、不法侵入した私が悪かったです」 そう言って、やっとが微笑ったので、それにつられて俺も少し笑ってしまった。逮捕ですかね、とが悪戯っぽく聞くので、そんなわけあるかと、頭を小突いてやった。 書類の溜まった机に向かうと、硯の横にまだ湯気の出ている湯飲みが置いてあるのに気がついた。おそらく、が持ってきてくれたのであろう。お茶を啜ると、熱い液体が食道を通り、胃の腑に染み渡っていくのがわかった。 「吸い殻、捨ててきますね」 そう言っては灰皿を持って部屋から出て行ってしまった。遠ざかるの足音を聞きながら、俺はまた湯飲みに口を付けた。温かいお茶が体の隅々に行き渡り、凝りや疲れを溶かしていくように感じた。湯呑みを持つ手もじんわりと熱を持つ。 少し落ち着いた気分になり、俺は無意識のうちにタバコを求めて懐をまさぐっていた。しかし、火をつける寸前、が灰皿を持って行ってしまったことを思い出し、仕方なく机の上にライターを放り投げた。お茶を飲もうにも、湯呑みはとうに空で、俺は途端に手持ち無沙汰になってしまった。が戻ってくるまでに少しでも仕事を片付けておくかとも思ったが、タバコがないと、どうも集中できない。俺は潔く全てを諦めて、ごろりと床の上に横になった。 気がついたら、伊東の事件から、既に一週間が経っていた。伊東派の仲間の殆どを粛清し、隊士が減ってしまったため、現在隊士一人当たりの仕事の負担が増えている状況にある。こういった変化はあるものの、基本的な俺たちの生活は今まで通り、滞りなく過ぎていった。日々の仕事に忙殺されて、些細な違いに気を留める余裕がなかったといえばそれまでかもしれないが、ふと我に返ると人の命のあまりの軽さに愕然とする。 ばかばかしい、人の命を奪うことも、いつ殺されるかわからない生活も、刀を手にしたその時から覚悟してきたはずだ。伊東が死んでも、俺が死んでも当人以外にゃ関係ねェことだろう。今更、怖気つくことなんて、この俺に限ってありえない。 寝転がっていたせいか、ここ数日のうちに溜めに溜めた疲れが一度に体に押し寄せてきた。やべェ、寝ちまいそうだ。まだ寝られない、寝るわけには行かない。こんなに仕事が残ってるってェのに。意思に反して、瞼はどんどん落ちてゆく。意識すらフェードアウトしかけたとき、 「仕事は、よろしいんですか?」 に呼びかけられて、朦朧としていた意識が一気に覚醒した。いつの間に戻ってたんだ。俺がうたた寝している間にか。女中の気配に気がつかないようでは、いつ寝首をかかれても仕方がない。起きた途端、視界に飛び込んできた蛍光灯の眩しさに目をしばたかせていると、が可笑しそうに口元を抑えているのが見えた。 「あまり、寝ていらっしゃらないんでしょう? 疲れも溜まりますよ」 船を漕いでいたのを見られてしまったのが気恥ずかしくて、が灰皿を机に置くのとほぼ同時に、待ってましたとばかりに何気ない風を装ってタバコに火をつけた。 「それと、タバコを吸うときは換気を良くしてくださいね。主流煙も副流煙も吸ってるなんて、体に悪いですから」 「そんなの、今更だろ」 お茶はいかがですか、とが聞くので、ありがたく二杯目を注いでもらった。お茶を音を立てて啜りながら、確かに俺は疲れているのだろう、と思う。それこそ、が近づいてきたのに気がつかないほどに。 「すごい書類の量ですね」 部屋を見渡しながら、は苦笑しながら言った。 「まァな。俺が10枚書類を片付ける間に、総悟が20枚も始末書をこさえてくるんだよ。アイツ、俺を過労死させるつもりだぜ」 「過労、じゃなくて肺ガンとかじゃないですか」 「どっちにしろ、総悟の思う壺だな」 はまた可笑しそうに笑った。 優しい女だと目の前で穏やかに微笑むを見て思った。一週間前、ケガだらけで帰って来た俺たちに、驚きながらもお帰りなさいと、暖かく出迎えてくれたのだ。 明るい話題を持ち出して、ふとした弾みに暗くなりがちな雰囲気を払拭する。俺たちの知らないところで、ずいぶん気を使ってくれているのだろう。忙しさを理由にの思いやりに気付けなかった己を恥じた。 「お前も、もうそろそろ寝たらどうだ。明日だって早いんだろう」 「その台詞はそっくりそのまま土方さんにお返ししますよ。たまにはちゃんと休んでください」 土方さんが倒れたりなんかしたら、真選組はたちまち立ち行かなくなってしまいますよ。がおどけた調子で切り返してくる。労ったつもりが逆に窘められている。しかし、心配してくれるのはわかるし、嬉しいが、休めるものならとうに休んでいる。 「土方さんは、辛くないんですか」 の声色が変わった。どこか悲しげな、不安そうな色合いを帯びている。俺は書き途中の書類を手元に引き寄せて、それに気がつかないフリをした。 「そりゃあ、辛ェよ。毎日2、3時間しか寝られねーからな」 俺の素っ気無い返答には黙り込んでしまった。俺は書類から顔を上げずに、仕事をしている様子を取り繕っていたが、目は文字を拾い上げることもできず、さっきから同じところばかりを読んでいた。 「私は、辛いです」 がぽつりと呟くように言った。 「あの日以降、洗濯物や作るご飯の量が減りました。みなさんも、無理して今まで通り振る舞っている感じがして」 堪らず顔を上げると、じっとこちらを見ていたと目が合った。慎重に言葉を選びながら、思いを余すことなく伝えようとしているかのように、 「でも、辛そうにしていない土方さんを見るのが、一番辛いんです」 俺は何も言えなくなってしまった。の瞳は濡れていて、睫毛は不安げに揺れている。 「辛いときや苦しいときに、弱音を吐かなかったら、土方さんはいつ辛いって言えるんですか」 いつ、なんて時は来ない。俺ァ弱音は吐かないし、これから先吐くつもりもない。 「伊東を斬ったのは、俺だ」 の目を見て、噛んで含めるようにゆっくりと言った。 「一番辛いのは、死んでった奴らのほうだ。もちろん生き残った俺たちが苦しまねェなんてことはねェ。それでも、俺たちはそれを承知したうえで刀を取ったんだ」 敵を斬ること、命を背負うこと、仲間を失うこと、恨み憎まれること。これらを甘んじて受ける覚悟はできている。相手を倒すことで命を繋いできた俺たちには、そもそも弱音を吐く権利なんてものはないのだ。 「それは違うと思います」 きっぱりとは俺の言葉を否定した。 「生きているからこそ弱音を吐いたり、苦しんだり、喜んだりできるんです。それができなきゃ死んだのと変わらないじゃないですか」 忙しいと言い訳して、なにも感じないフリをして、確かに俺は気持ちを殺してきた。俺たちは、これからも死んでった奴らの思いを丸ごと背負って生きていかなければならないのだ。決して軽くはならない荷物を、死ぬまで抱え続ける。今ここで弱音を吐いたりしたら、それまで保ってきた気持ちや意地が崩れちまいそうじゃねェか。 「崩れちゃダメなんですか」 が手を伸ばして、俺の頬に触れる。その指先が、人のものとは思えないほど冷たくて、俺は息を呑んだ。 「少しくらい挫けたって、何かに縋ったっていいじゃないですか」 想いが、決壊する。の瞳から溢れ出した気持ちは、着物に染みをつくった。嗚咽を漏らすこともなく、涙だけが静かに流れ落ちていく。 「私では、土方さんのお役に立ちませんか」 あなたの支えにはなりませんか、とは言う。俺が、俺たちがどれだけによって救われているか、なんで彼女は気付かないのだろう。 頬に触れていた手を掴んで、強く引き寄せた。俺が恐れているのは、縋ることに慣れてしまうことだ。お前に頼って、寄りかかりすぎて押し潰してしまうんじゃないかと不安になる。この腕の中に収まってしまうような小さな体なら、なおさらだ。 できるものなら側にいてくれと伝えたい。それでも俺は決してその願いを口に出したりはしない。しかし。 細く震えるを抱き締める。今、ほんのひとときだけ、甘えてもいいだろうか。 、お前が泣き止むまでの、少しのあいだでいいから。 |