こんなにも暖かいのは、きっと貴方がいてくれるから





もうこれ以上伝えようがないの





辺りはとうに闇に沈み、数メートルおきに電柱に取り付けられている街頭だけが、点々と浮島のように世界を創っている。
暦の上ではもう春だというのに、私の頭の上ではまだ、北の国から出張ってきた寒気団とやらが、必要以上に頑張っている。そろそろお引き取り願いたいのだが、そんな私の気持ちを無視して、彼らはまだここに居座るつもりらしい。
吐く息は白く、足の指先はさっきからじんじんと痺れたように感覚がない。太陽の出ている間に、帰ってれば良かったかと思っても、もう後の祭りだ。


「……寒い」
もう何度目かわからない文句が口をつく。
「冬だしな」
トシもその度、同じ返答を寄越してくる。律儀というかなんというか。でも私が望んでいるのは、そんな味も素っ気もない返事じゃない。
「可愛い彼女が隣で寒さに震えてるんだから、マフラーくらい貸してくれたってバチは当たらないと思うんだけどなァ」
「そんなのお前が寝坊してマフラー忘れてくんのが悪ィんだろ」
トシに正論を展開されて、私は言葉に詰まる。
だって仕方ない。朝は寒いんだもの。布団と毛布が恋しくて愛おしくて堪らないのだ。それでも私は学校に行くべく、その楽園から抜け出してきたんだから、褒めてほしいくらいだ。
「俺ァ、何度も電話してやったぜ? でもまァ、仕方ねーな。は俺より布団や毛布の方が好きらしーからな」
「何ソレ、嫌味ィィ!? だったらトシが布団の代わりに暖めてくれたらいいじゃん!」
「なに訳わかんねーキレ方してんだ!」
私は唇を尖らしてそっぽを向く。途端、強い風が吹いて、私はその冷たさに思わず身を竦ませた。
首元の防御力が弱いというのは致命的だ。寝坊したため、マフラーはおろか、手袋まで忘れてきてしまったのだ。おかげで遅刻は免れたのだが、日の落ちたこの寒さはさすがに身に堪えた。


太陽が遥か向こうのビルの合間に沈んでしまってから、既に2時間は経っている。かじかんだ手をすり合わせてみても、なんの効果も得られない。コートにマフラーに手袋という完全防備のトシを横目で睨みつける。羨ましいことこの上ない。
「ねーえ、マフラー半分だけでいいから貸して!」
トシの前に立ちはだかって、両手を合わせてお願いのポーズをとる。
「なんだよ、半分って」
トシは胡散臭そうな目つきでこっちを見遣る。
「だから半分だよ。いわゆる恋人巻きってやつ!」
「ぜってーヤダ」
トシは私を押しのけて、先に行ってしまう。そりゃ、了承してくれるとは思ってなかったけど、そんなに嫌そうな顔しなくたっていいのに。私は小走りでトシを追いかけた。
「いいじゃん、別に。恋人同士なのに」
「お前、それ本気で言ってんの?」
とにかく俺は無理、と切られてしまったら、もうどうしようもない。なんだよケチンボ、仕方ないね、照れ屋さんだもんね、と悪口を言ってみてもトシが揺らぐはずもない。不機嫌そうに家路を急ぐだけだった。


トシは男の人の中でも背が高いほうだ。そのトシが大股で歩くものだから、トシよりだいぶ身長の低い私は自然、早足になる。トシは私が頑張ってついていくのに気がついていないのか、全く歩みを緩めてくれそうにない。いい加減疲れてきて、私は堪らずにトシの袖を引いた。
「ねぇ、ちょっと早い! もっとペースダウンしてくれたっていいじゃん」
「んだよ、運動すりゃ、ちったァ暖まるじゃねーか。とっとと歩け」
そう言ってトシは心外だとばかりに文句をたれる。心外なのはこっちだ。なんでこんなことで怒られなきゃならないんだ。
「歩いてるよ。つーかむしろ、ほとんど小走りなんだけど!」
体力ねーなァ、とトシがため息をつく。そんなもの、トシの基準で判断しないで欲しい。体力でトシと渡り合うほどの女の子なんて、そうそういないだろうに。それともなんだ、トシは逞しい筋肉がついている子のほうが好みなのか。
恨みがましく横目で睨みつけたら、黙ってこっちを見ていたトシと目が合った。その真剣な眼差しに、思わず心臓が跳ね上がる。肌を刺す冷気が消し飛んだかと思った。どうしたの、と平静を装って聞いてみる。甘い予感に私は胸を高鳴らせた。なのに、それなのにトシときたら。
「ずっと思ってたんだけどよ、そんな短いスカート履いてっからさみーんじゃねーの?」
「……いや、だってミニスカートだから」
とっさのことで、上手く言葉が出てこない。てか、真面目な顔してそんなことを考えてたのか、この男はァァ!
「長くすりゃいーんじゃねーのか」
「その選択肢だけはありえないから」
せっかく人が一生懸命考えてやってんのにわがままばっか言いやがって、とトシは不満げに言う。トシなりに私のことを考えてくれているんだから、優しいなとは思う。その気持ちはありがたい。ありがたいけど、正直空回ってるんじゃないかと思う。
確かにスカートは寒い。短いならなおさらだ。それでも、もう膝下まであるような長いスカートは履けたもんじゃない。少しでも可愛い格好をしたいっていう女の子の気持ちがなんでわからないんだろう。


首筋を舐めるような冷たい風に、思わずコートの襟を寄せ合わせる。少しでも風除けにとトシに身を寄せたら、なんと一歩引かれてしまった。
「ちょっと、なんで逃げるのよ」
「だって歩きにくいだろ」
「なにそれ、冷たい! 今、心に隙間風が吹きましたァァ!」
どこまで合理的な男なんだ。せっかく一緒に帰れるんだから、少しくらい恋人らしいことをしたいと思ってなにが悪いんだ。
それとも。私は涼しい顔で隣を歩くトシを見上げる。空回りしてるのは私のほうかもしれない。私がトシを想うほど、トシは私のことを想ってくれていないのかもしれない。
時間を共有したい、休みに日には二人でどこかに出かけたい、手を繋いで帰りたい。そう強く思っていたのは私だけだったんだろうか。
胸が詰まって息苦しくなる。鼻の奥にツンとしたものが広がって、私の歩みは次第の遅くなる。歯の根が合わないのは、はたして寒さのせいだけだろうか。
俯いて、爪先だけを呆然と見つめながら、足を機械的に動かす。冷たい風が膝小僧から、頬から、首元から根こそぎ熱を奪っていった。
すぐ隣を歩いているのに、手を伸ばせばすぐに触れられる距離にいるのに、トシが何を見て、何を考えているのかなんて、私には全然わからない。こんなのも近くにいるのに、心は酷く遠く感じられる。
こっそり吐き出した溜め息は、白く濁ってすぐに消えてしまった。


「おい、!」
強く腕を引かれ、バランスを崩した私はトシに体当たりするような形で抱きとめられる。
すぐ目の前の道路を大きなトラックが地響きと砂埃を立てて通り過ぎた。
「お前なァ、ちゃんと前見て歩けよ。危なっかしいにも程があんだろ」
頭上から怒ったような声が降ってくる。ごめんなさいと、小さく呟いてみたものの、トシの目を見ることはできない。呆れられたかも。こうなってしまうと、もう悪い方向にしか頭が働かなくて、もはや膨らんでいく不安を押さえ込むなんて私にはできなかった。


不意に、暖かくて柔らかい何かが頬を掠めた。視界が覆われて、驚いて顔を上げると、仏頂面のトシが目に入った。
「明日は忘れてくるんじゃねーぞ」
トシはやっぱり文句を言いながら、自分がしていたマフラーを外してぐるぐると私の首に巻きつけた。
「いい、の?」
「いらねーなら返せ」
やだ、と私は慌ててマフラーを両手で押さえて顎を埋めた。それはまだトシの温もりや匂いが残っていて、私の肺の奥底から熱で満たしていった。
ほらよ、とトシが続けて寄越してくれたのは、左手の手袋だった。もういいよ、と返そうとしても、いいからしとけと押し付けられてしまう。一応、お礼を言って受け取ってみるも、やっぱりそれは私には大きすぎた。それでその手袋も暖かくて、トシの優しさが嬉しくて、私の頬は自然と緩んでしまう。
ヘラヘラと左手をためつすがめつ眺めていたら、今度は無防備だった右手を掴まれてしまい、それは彼の左手と一緒に、あっという間にトシのコートのポケットに納まってしまった。
「これでもう文句はねーだろ」
不機嫌そうな素振りでトシは呟くけれど、それが照れ隠しだってことくらい、私にはお見通しだよ。素直じゃないんだから、なんて言ったら怒られるから口にはしないけど、釣り上がってしまった唇は、ちょっとやそっとじゃ元に戻りそうにない。
トシに寄り添って、握った手に少し力を込めたら、冷てェと憎まれ口を叩かれた。
「マフラー半分貸してあげようか?」
「絶対いらねー」
拗ねたような言い方が可笑しくて、とうとう我慢できずに笑ってしまった。トシはますます苦い顔をして見せるけれど、それすら可愛くて、格好良くて、私の体の中からは熱が溢れ出してくる。


「あァ、畜生、さみーな」
トシは諦めたように溜め息をつく。
「そうかな、私はあったかいけど」
「そりゃ、はそうだろ」
「むしろ熱いくらいだよ」
私は左手で口元を覆って笑いを漏らした。不恰好に巻かれたマフラーも、ぶかぶかの手袋も、指を絡ませた右手も、宿った熱量で火傷しそうなほどになっている。
「……熱でもあるんじゃねーの?」
トシが訝しげに覗きこんでくる。
えぇ、そう。私は貴方にお熱ですとも。