私はこの手に刀を握ることはないけれど





闘う女





気がつくと、机の上の書類が眼前に迫っていた。どうやら船を漕いでいたようだ。
思いきり体を伸ばし、首を回すと、部屋に小気味良い音が響いた。喉を湿らそうと、湯飲みに手を伸ばすも、お茶は冷め切っていた。仕方なしに冷えたお茶を啜り、机の上を見渡す。机には書類がうず高く積まれ、床の上にまで紙の山ができていた。数日間、妖刀騒ぎでまったく仕事をしていなかっただけでこのザマだ。今回の件でまた、さらに新しい書類の山ができるだろう。
ため息とともに煙草の煙を吐き出す。時計を見ると夜中の2時を指していた。どうやら、そんなに長時間眠りこけていたわけではないらしい。


今日という日ほど長い一日はなかったように思う。握った刀の柄の感触、耳をつんざくような爆発の音、全身に浴びた幾人もの返り血の臭い。
一般人には馴染みのないものだろうが、俺にとっては別段珍しいものではない。しかし、目を閉じるとありありと今日の出来事がよみがえり、ヘタをすると夢の中にまで侵入されそうになる。
くだらねェ。
短くなった煙草を既にいっぱいになっている灰皿に押しつける。新しい煙草を吸おうと懐から箱を取り出すも、既にそれは空になっていた。俺は舌打ちをして箱を潰し、ゴミ箱に向かってそいつを投げた。いびつな形に歪んだそれは、鈍い音を立ててゴミ箱の縁にあたり、畳の上を転がった。
棚の上に確か、煙草の買い置きがあったはずだ。しかし、ほんの数メートルの移動が億劫でたまらない。書類の整理も全くやる気が起きない。しかし、いつまでもぼんやりとしているわけにもいかず、俺は重い腰を上げた。少し食いもんを腹に入れよう。気分転換にもなるだろう。そう思って、ひとまず台所に向かった。


台所には先客がいた。暗くて見え辛いが、こちらに背を向けて椅子に座っている。どうやら机に頬杖をついているらしい。影形から見ると女のようで、俺は心当たりのある名前を呼んだ。
? まだ起きてたのか?」
声をかけるとよほど驚いたらしく、びくりと肩を震わして、勢いよく後ろを振り向いた。
「もう2時だぜ。どうかしたか?」
こんな夜中に、しかも電気も点けずに呆けているなど尋常じゃない。
「いえ、ちょっと眠れなくて……。土方さんこそどうしたんですか?」
「まだ仕事が終わらなくてな。コーヒーかなんかあるか?」
今、用意しますね、とが立ち上がる。やかんで湯を沸かし、インスタントのコーヒーを戸棚から取り出す。たったそれだけのことなのにに、の様子に違和感のようなものを感じる。不安定といったほうがしっくりくるかもしれない。
無理もない、と俺は思う。攘夷浪士と伊東派の連中と派手にやらかしたのはほんの半日前なのだ。女中であるは直接刀を振り回すわけではないが、食事の用意や掃除・洗濯など、隊士に接する機会は多い。昨日まで普通に生活していた隊士が、一夜明けた途端、敵になっていて、しかも粛清されていたとなれば、動揺もするだろう。


「お待たせしました」
目の前にいい香りコーヒーが差し出される。
「おぅ、悪ィな。ついでにこの残りモンの握り飯ももらっていいか?」
机の上には今日の夜食であったおにぎりが残っており、ラップがかけられていた。これは普段は夜勤の隊士のためにが用意してくれるものだ。いつもなら一つ残らず食べられてしまうのだが、今日はなぜか、いくつも皿に残っていた。
「えぇ、どうぞ。作りすぎてしまって、余っちゃったんです」
夜勤から帰ってきた隊士は、まず我先にとおにぎりに飛びつく。気づいた時には皿は空になっていて出遅れた者は空腹を抱えたまま、床につくことも少なくない。なんで、今日に限ってこんなに、と口に出そうとして、ようやくそのわけに思い至った。この残り物は、今日屯所に帰ってこられなかった奴らの分だ。


「お昼過ぎ頃、土方さんが無線で連絡をいれたじゃないですか」
正確に言うと、あれは万事屋が俺になりすまして連絡したものだったが。
「あれから皆さん、すぐに車に乗って屯所を飛び出して、私は一人で留守番してたんです」
台所は暗く、も俯いているためにその表情を窺うことはできない。
「私は一人で落ち着かなくて、何かをせずにはいられなくて。救急箱の準備をしたり、夜食でもと思っておにぎりを作りすぎちゃったり」
洗濯物を取り込み、掃除をし、忙しく立ち働いていても、不安や心配が薄まることはなかっただろう。胸が苦しくなるほどの焦燥に駆られながら、時間が過ぎるのをひたすら待つというのは、どれほどの苦痛だろうか。にとっても今日という日は長い一日だったのだ。
「土方さんが帰ってきてくださって、本当に良かったです」
胸の前で組まれた指は、白くなるほどきつく握り締められていた。彼女が、おかえりなさいと、泣き笑いのような表情で玄関まで迎えに出てきてくれたことを思い出した。俺か、伊東か。はどちらか一方しか帰れないことを知っていただろう。広い屯所に一人残されて、なにを思って俺たちの帰りを待っていたのか、容易に想像することができる。台所で一人座って、祈るように待っていたのだろうか。

俺が呼びかけると、はっとしたように顔を上げた。瞳からは不安が溢れ出ている。別に不安にさせたいわけじゃない。
だって気付いている。俺たちはいつ死んでもおかしくない仕事に就いている。いってらっしゃいと見送られて、そのまま待てど暮らせど帰って来ないことなど、ざらにあるのだ。だから
「俺ァお前に待っててくれだなんて、口が裂けても言えねェ」
「……知っています」
の表情が曇る。泣いてこそいないものの、声は既に濡れている。
「それでも、お前がいるから、俺の帰る場所はここだと思ってる」
はまた俯いてしまう。泣かせたいわけでもない。そんなことを言ってもは信じてくれるだろうか。少し手を伸ばせば触れることができる距離にいる。しかしそんな資格が俺にあるか。女一人、安心させてやることもできない。は肩を小刻みに震わせてはいるものの、決して泣き顔を見せたりしない。嗚咽すら漏らさない。そうさせているのは、他でもない、俺だ。
「私は、土方さんに、おかえりなさいって言いたいだけなんです」
がか細い声で、切れ切れに言った。なァ、。お前は気づいてんのか。俺が帰るのは屯所じゃなくてお前の所だということに。お前がこの場所を守ってくれているから俺たちは安心して帰ってこられるんだ。待っててくれだなんて言わない。言葉にしなくてもお前はきっと待っててくれるんだろう。それを知りながらこんなことを言うんだから、俺は甘ったれで卑怯だな。
それでも、これだけは誓う。刀に賭けて、魂に賭けて。
命の続く限り、のために、ここに帰ってくると。