あなたは目を伏せる。そんなふうに苦しむことなんて一つもないのに。 止まれはしない、戻れもしないのに 今日は朝から雨が降っている。風はなく、夕方になっても降り止む気配はなく、日が落ちた今も細い糸のような雨は地を濡らしている。色彩を失った庭の木々は、水を含んだ葉を繁らせて、影を深めている。 誰かが片付け忘れた下駄が縁側の下に転がっていた。水たまりに半分ほど浸かったそれは、土色に染まり、泥をこびりつかせている。 明日は晴れるといいのだけれど。降り続ける雨を眺めながら、ぼんやりと思う。今日は、靴も、隊服も目いっぱい濡らしてしまうだろうから。部屋に洗濯物を干したって、なかなか乾かないし。 廊下の柱にもたれて、ぼんやりと雨に打たれる庭を眺める。集合時間までは、まだ随分余裕がある。腰に下げた刀に指先で触れて、濡れた柄は滑り易いから気をつけないと、と暢気にそれだけを思った。 湿気を含んだ廊下が軋む音がした。聞きなれた足音は、自分の上司のそれであるとすぐに気がついたが、特にそちらに目を向けたりもしなかった。煙草の匂いがここまで香り、彼が溜め息のように煙を吐き出した気配がした。 「雨は嫌ですね」 隣に目を遣れば、一メートルほど離れた所に副長が立っていた。 「雨だろうが晴れだろうが、俺たちがやるこたァ変わんねーだろ」 「それはそうですが」 副長は庭を眺めている。でも、横顔からでもわかる。この人は、口の端をわずかに吊り上げて、楽しそうにしている。 「洗濯物が増えますから」 そういうと副長は、は、と声を立てて笑った。 「それこそ洗濯物の量なんて変わんねーよ。明日の朝にゃ、全部クリーニング行きだろ」 そこで副長は庭から私へ視線を転じた。目をわずかに細めて、美味しそうに煙を吸う。虚空に向かって吐き出された煙は、雨に溶けて、瞬く間に消えてしまった。 「こそ、洗濯物なんざ気にするたァ、余裕じゃねーか」 副長は口元に上る笑みを隠そうともしない。この人は、朝からずっと上機嫌だ。別にそれを不謹慎だと思うこともないが、一緒に笑う気にも、特にはならない。 「気にしなくていいことまで、気になってしまうんですよ」 まだまだ未熟なもので、平常心には程遠いのです、と自虐的に続ける。 雨は強くも弱くもならず、依然として降り続いていた。今晩、大きな手入れがあるというのに。 真選組に女隊士は少ない。裏方ならともかく、刀を握って前線に出るとなると尚更だ。私が入隊を希望したときも、副長はかなり渋ったものだ。 「確かに腕は立つ。ここ最近の新人の中じゃ一番だ」 面接、と称して招き入れられた部屋には、副長と局長が揃って座っていた。どちらも苦々しい表情をして、私が歓迎されていないことは、充分に伝わった。 「こんなムサ苦しいところで、隊士として働きたいってのはありがたいんだがなァ」 局長はひどく困っているようだった。嬉しいけれど、素直に喜べない、という葛藤を隠し切れない、良い人なのだろう。 「ありがてェどころか、かえって迷惑だな」 局長とは逆に、この人は嫌な顔を隠そうともしない。 「なまじ、腕が立つだけに落とす理由がねェ。厄介だな」 本人を目の前にして、厄介者というのもどうだろう。よほど私を入隊させるのが嫌らしかった。 「、っつったか。お前、局中法度は知ってるな」 はい、と私は頷く。 副長自ら作ったといわれる局中法度。入隊を希望しておいて、その存在を知らないという者はいないだろう。その法度の苛烈さ、過酷さ、罰則の厳しさは他の組織より群を抜いている。 「なら、一度入隊したら脱退できねェってもの知っているな」 これにも私は頷く。しかし、厳密に言うと、少し違う。 真選組は、脱退できないのではない。脱退が許されないのだ。それを試みようものなら、発覚した時点で即切腹。また、その試みを成功させた者も皆無といわれる。 「お前は女だ」 鋭い双眸がさらに細められる。そのまま、私を射抜くかのように。 「どんなに腕が立とうが、出世をしようが、性別は変えられねェ。そしてそれは、一生お前について回る」 一語一語、淡々と語られる。そしてその言葉は、私を打ち据える。副長の気迫に押し潰されそうになる。 「斬り合いになりゃ、真っ先に狙われる。仲間内でも、不愉快な思いをするこたァ山ほどある。ヘマをすりゃ、必要以上に叩かれる。全て、お前が女であるという理由だけでだ」 副長は、ずいぶん私が入隊を希望することをお気に召さないらしい。それでも、なんてフェアな人なんだろう。女が不利であると告げる、その言葉には誇張も、ましてや侮蔑など欠片もない。誠実な人だ。 「俺達ァ、畳の上で死ぬつもりはねェ。敵に斬られるか、手前で手前の腹を切るかの二択だ。お前も、そんな死に様がいいってェのか」 おい、トシ、と局長が副長をたしなめる。 「本当のことだろ、隠してどうする」 「それでも言い方ってもんがあるだろ」 局長は困った顔をして、私にごめんな、と謝った。 「言葉は悪ィがトシのいうことは間違っちゃいねェ。女が、と言われるのは腹立たしく思うかもしれんが、女ってことでさんはきっと損をする」 この組織で一番偉いはずのこの人が、私に申し訳なさそうな顔をする。 「さんが、入隊を希望してくれて、俺ァ嬉しい。一緒に戦ってくれるってェんだから尚更だ。だからな、さんが正当な理由もなく見下されたりするのは嫌なんだ」 と、トシが言っていた、と局長は悪戯っ子のように笑うので、つられて私も笑ってしまった。副長だけが、舌打ちをして、そっぽを向いてしまう。 「覚悟はできております」 たった、二文字。覚悟という言葉は、私の決心を表すには軽すぎるように思う。それでも、言わなければ。この、心優しい人達に、私の覚悟の重みを伝えられるように。 「刀を振るう、この道を選んだことを後悔してはおりません。私が女であることを、嘆くような真似も致しません」 深く下げた頭を上げると、こちらを睨めつけるような副長の視線とぶつかった。私も腹に力をこめて、副長を見つめ返した。 「入隊を希望いたします」 屋根から雫が落ちる音と、副長が煙を吐く音だけが辺りに響く。 「俺ァ、晴れより雨のほうが好都合だと思うぜ」 庭に視線を固定したまま、副長は笑う。 「血の匂いも流れ易いし、何より気配を絶ちやすい」 そういって、短くなった煙草を軒の下の水溜りに投げ捨てた。手入れ前にそんな楽しそうな表情を浮かべるのは、副長くらいだ。どれだけの修羅場をくぐってきたのかなんて、私には想像もできない。 覚悟はしていたつもりだった。それでも、初めての手入れの日、人を斬った感触、返り血の生暖かさは、今でも夢に見たりする。今でこそ、悪夢にうなされて、夜中に飛び起きることはなくなったが、前日の疲れが、まだ体に残っているような、肩の重さは相変わらずだ。 副長も、そんな夢を見たりするのか、と聴いてみたくなった。しかし、口から出たのは、まったく別のことだった。 「副長は、楽しそうですね」 言ってしまってから、青くなった。失礼なことを聞いてしまった。せっかく機嫌がよかったというのに。慌てて取り繕うにも、とっさに言葉が出てこない。焦る私を横目で見ながら、副長はポツリとこぼした。 「お前は、落ち着き過ぎだな」 「落ち着き過ぎ、ですか」 「あァ、なんか総悟みてェだな」 真選組は、武装警察、対テロリスト組織、つまりは人殺しの集団だ。刀で、悪を斬る、命を奪う。そのために、帯刀を許されている。 それでも、今日のように大きな手入れの前は屯所の空気が変わる。いくら警察といえど、命のやりとりにはそう慣れるものではないのだ。もっとも、慣れたいと思ったこともないけれど。 こんな日は、普通はみんな落ち着きを無くす。道場に籠って、黙々と素振りを繰り返す人、突然お喋りになる人、怒りっぽくなる人、様子は様々だが、張り詰めた空気が屯所中に充満する。 局長もこの日ばかりは口元を引き締めて、眼差しに力が入る。それでいて、いつものように大らかでいて、浮き足立った隊士の気持ちを静めてくれる。緊張の糸が張り巡らされた中で、局長の笑い声が響くと、棘が鈍くなるような気がした。 貫禄、と呼ぶのだろう。局長がいるから、という安心感が日溜りのような暖かさを持っていた。 一方で副長は、部屋に閉じこもり気味になる。そこで、刀の手入れをしていたり、書類整理をしていたり、時には今のように廊下に出て、煙草を吸っていたりしている。 そんなとき、副長はたいてい機嫌が良い。みなが深刻そうな顔をしているというのに、副長だけは今にも鼻歌を歌いだしそうなほどに、楽しそうにしているのだ。手入れを晴れ舞台、戦闘を喧嘩と呼びこの人にとって、命をかけることさえもお祭り騒ぎなのだろう。 そして、皆が落ち着きを無くす中で、全く普段通りに振舞えるのは、沖田隊長だけだった。いつものように見廻りをサボり、副長を冷やかし、山崎さんに無理難題を言いつけたりしている。 沖田隊長のこの落ち着きぶりは、隊随一とも言われる腕があってのことだろう。戦闘の最中にあって、この人ほど冷静に刀を振るう人を、私は見たことがない。 その沖田隊長と私が似ているとは、いったいどういうことだろう。刀の腕前では、隊長と比べるべくもない。それがなぜ。 「お前は、覚悟が出来すぎてんだよ」 副長の言い方に、私は首を傾げる。覚悟など、誰だってしているだろう。なにせ、既に遺書を残している人もいるくらいなのだから。 「人を殺す、殺される覚悟ってだけじゃねェ。刀を握る、真選組の隊士になるってことを後悔しねェって覚悟だ」 「それは……入隊する時に一番最初に申し上げたはずですが」 「そうだな、そいつァ俺のミスだ」 お前の“思い”の深さを測り損ねた。副長はそう言って、また煙草に火をつけた。先ほどまでの上機嫌な様子は、もう見当たらなかった。 「女っつーのは厄介だな。一度腹を括ると、何があってもビクともしやがらねェ。少しくらい揺らいでくれた方が、俺としちゃやりやすいんだがな」 副長はそう言うと、自嘲気味に唇を歪めた。私も、副長と同じように庭を眺めながら、答える。 「屯所の門を叩いたときに、決めたのです」 明日、死のう。毎日そう思いながら、刀を握ってゆこう、と。 真剣の重さに、血の臭いに、慣れたわけではない。簡単に、諦められるようになっただけだ。 それでも私は最後まで、私の意志で、この道を選んできた。自分を不幸だと思ったことはない。いわゆる女らしい生活、平和な暮らし、幸せな家庭、全てを捨ててきた。 私が欲しかったのは、そんなものではなかったからだ。見廻り中に、笑顔で手を繋ぐ親子とすれ違うときに、もしかしたら、あれは私ではなかったかと、思うことがある。あのように、笑う日々を望むこともできたのに、と。 そっちを選べ、と最後まではっきりと私に告げることはしなかったけど、局長も副長も本当は言いたかったのだろう。なんて優しくて、甘い人たちだろう。過去を振り返りはしない、とあの日にいった。それは今でも変わらない。 「死にたいと思ったことはありませんが、長生きできるとも思っていません。平穏に生きていく道も選べましたが、それをしなかったのは私の意志です。そして、この選択を、後悔することは決してありません」 体ごと副長に向き合って、一息で告げた。あたりが少し騒々しい。間もなく、時間だ。 「俺はが後ろ向きに後悔する奴だとは思っちゃいねェ」 かけられた声は、存外優しいものだった。 「お前は、後悔しねェ、覚悟が出来てると言う。そんなふうに、お前に言わすよう仕向けたことを、俺ァ後悔してるよ」 そろそろ行くぞ、と身を翻し副長は廊下の向こうに消えていった。 雨でも晴れでも私たちは刀を握る。 私が死ぬのは、今日か明日か、それとも一年後か。選んだのは私だ。なのに、なぜあの人はあんなにも苦しげな顔をするのだろう。 つくづく甘い。雨に打たれる煙草の吸殻に舌打ちをする。 副長の後悔なんか、聞きたくはなかった。 |