堰き止める間もなく、湧き出て溢れてしまったんだ。





君の笑顔は淡いグリーン





今日はまた、よく晴れている。しっかりと黒い制服を着込んでいると、じっとりと汗ばんでくるくらいだ。太陽も夏に備えてエンジンをふかし始めたのかもしれない。
いつも通りの通学路。毎日同じ風景の道を、毎日同じ制服で登校する。きっとそれは卒業するまで変わらないだろう。
木陰を選んで歩いていたら、十数メートル先に見覚えのある背中を見つけた。少し大股で急ぐと、すぐにそいつに追いついた。そういや昨日もコイツは歩くのが速いとか文句を言っていたっけ。確かに体格も違うだろうが、どっちかというと俺が速いんじゃなくてコイツが遅いのだと思う。
「よォ」
追いついたついでに声をかければ、コイツ――は驚いたようにこっちを見上げて
「おはよう、土方君」
そう挨拶して、笑ったのだった。


俺は昨日まで、とあまり話をしたことがなかった。接点がなかったと言うべきだろうか。
3年になって、初めて同じクラスになってしばらく経つが、俺たちが親しくなるようなキッカケなんて、一つもなかった。昨日だってただ、の不自然に光った爪が目に入っただけだったのだ。それがなければ、と言葉を交わすことなく時を過ごし続けていたかもしれない。
縁とでも呼べばいいだろうか。たった一日で、こうやって肩を並べて登校するようになるなんてなァと、他人事のように思った。
「土方君は今朝は朝練ないの?」
「今日は休みなんだよ」
そんなやりとりをしながらも、俺は少し驚いていた。は俺の部活なんて知っていたのか。ならば逆に俺はどうかと考えてみたのだが、部活なんてどころか、クラスの半分もわからなかった。
「お前こそ、今日は早いじゃねーか。なんかあんのか?」
「いや、なにもないよ? いつも通りの時間だし」
などと言いながら、は首を傾げる。でもこのままいけば、割りと早い時間に学校に着くことになる。はいつも通りと言うが、コイツは特に早くに来たりはしないはずだ。そんなことを考えながら歩みを進めていると、突然目の前に、じゃんけんでいうところのパーの形をしたの両手が突き出された。
「今日は、つけてきてないからね」
「たりめーだ。そんなん自慢すんな」
つけていない、というのは昨日のことを言っているのだろう。強引に教室から連れ出して落とさせたから、俺ァてっきりには嫌われたかと思っていたのだが。は少しくらい誉めてくれたっていいのに、と屈託なく笑うだけだった。
昨日、掴んだの手首は驚くほど細かった。力を入れたら折っちまうんじゃねーかと、加減してはいたのだが、生徒指導室に着く頃には、の手首にうっすらと俺の指の跡が残っていた。罪悪感が小さく胸を刺したが、それを無理矢理振り払って除光液を渡したのだった。


一陣の風が辺りを吹き渡り、木々の枝葉を揺らした。隣りを歩いていたの髪も一緒に靡いて、隠れていた首筋が一瞬だけ露わになった。制服の襟の濃紺に、白い肌がいやに眩しく映り、俺は思わず目を逸らした。
なにをやってんだ、俺は。中学生のガキじゃあるまいし。自分のとった行動に苛立ちを覚え、俺は小さく舌打ちをした。
「どうしたの、土方君たら。そんなに険しい顔して」
なんの前触れもなく、が俺の顔を覗き込む。なんでもねェと、素っ気なくあしらうと、そう、と首を傾げはしたもののいやにあっけなく身を引いた。
ペースが乱される。よく会話はキャッチボールに例えられるが、との会話はまるで、ストレートがくると思えばカーブを投げられ、速球を待ち構えていたらチェンジアップがくるといった具合いなのだ。
あれ、これキャッチボールじゃなくてピッチャーとバッターの関係じゃね? 道理で会話が成立しないはずだ。
俺が一人でこんなことを考えている間にも、は他愛もない話をふわふわと続けている。宿題や昨日の晩ご飯、お隣の飼い猫まで、はなんでもない日常を、面白そうに、楽しそうに話す。
よくもまぁ、これだけ口が動くものだと感心していたら、はたとは黙って恐る恐るこちらを見上げた。
「あの私、もしかしてうるさかった? もしそうだったら、ごめんね」
急にしおれた様子のに、俺は少なからず慌てる。
「別に、誰もんなこと言ってねーだろ」
「でも、土方君が黙っちゃうから」
「いや、よく舌噛まねーな、とは思ってっけど」
は不安げな目を俺にむけてくる。こんな表情は昨日だってしていなかったというのに。これじゃあ、俺がなんか悪いことしたみたいじゃねーか。
「でも嫌だなんて言ってねェだろ」
自分で、自分の言葉に驚いた。なに言ってんだ、俺は。さっきから全てが思い通りにいかない。
だがそれも、そっかと言うの嬉しそうな顔を見て、いっぺんに吹き飛んでしまった。笑顔が眩しいというのは、きっとこういうことを言うのだろう。
なんなんだよ、さっきまであんなに勝手に喋り散らして、急に元気を無くしたかと思えば、簡単に復活しやがって。おかしいだろ、こんなにころころ気分変えやがって。
それともおかしいのは、これくらいで動揺している俺のほうなのか。心の中で悶絶している俺とは対照的に、はスキップでもしそうな勢いだ。元気だな、コイツ。まだ学校にも着いてないのに、俺ァもう疲れ果ててんだぞ。お前のせいで。


「あ、そういえばさ」
前を歩いていたが突然振り向いた。なんだ、今度は何がくるんだ。何が来たってもう俺ァ驚かねーぞ。
「昨日はどうして私に髪染めてるかなんて聞いてきたの?」
昨日、だと。身構えていたせいで、頭が回るのに少し時間がかかる。そういえば昨日の昼休み、確か生徒指導室でそんなことを言ったような気がする。
「なんでって、ずいぶん茶髪に見えたからよ、でも今見たトコそーでもないな」
昨日は昼の暖かな陽光が繊細な髪に反射して、柔らかな茶色に見えた。よくものを考えずに、ボンヤリ綺麗だと、そして染髪していてもなら似合うと感じたことを思い出した。
「そんなに茶色かなぁ、でも昨日はまたイチャモンつけられたのかと思ったよ」
「イチャモンじゃねーだろ。立派な校則違反だろうが」
「あ、それとも実は土方君は髪フェチとか」
「人の話を聞けよ」
呆れてため息をつくと、冗談だよとはまた笑った。ホント、楽しそうに笑うよな。何がそんなに面白いのかなんてわかんねーけど、でも仏頂面よりはいいと、そう思った。


ざわり、とまた風が吹いた。木々の枝を揺らし、制服の裾をはためかせる。木陰の下で頬に感じる風は、心地よい。
も同じことを考えていたようで、空を見上げながら気持ち良さそうにめを細めた。につられて同じように頭上に目を向けると、葉の隙間から宝石のような光が、惜しげもなく零れ落ちてきていた。
「キレイ、だねぇ」
「そーだなァ」
するりと、抵抗もなく素直な気持ちが漏れた。は少し驚いたような素振りを見せたが、すぐに破顔した。


それからもは可愛い花が咲いていたと言ってはそっちに駆け寄り、毛虫が出たと言っては怯え、フラフラと蛇行しながら歩く。そうか、こんな寄り道ばっかりしてっからコイツは早くに家を出てるのに、いつも学校に着くのがギリギリなんだな。
しかし俺は毎日、と同じ道を歩いて登校していたはずなのに、見ているものが全く違っていたことに気がついた。道端に咲く花や、鳥の鳴き声なんて、今まで気にしたことがあっただろうか。
目に映る風景が、感じ方が違う。一歩分だけ離れてを観察してみると、コイツはたった数十メートルを進むのに、ずいぶん時間をかけていることがわかる。
あぁそうか。何かに似ていると思っていたが、コイツはまるで。
「幼稚園児みてーだな」
「え、なに、藪から棒に」
散歩途中の犬とじゃれ合いながら、は驚いたように俺を見返した。
「あっちにフラフラ、こっちにフラフラ、好奇心の塊だよな」
「せめて、感受性が高いって言ってよね」
そう言って、は頬を膨らませた。


なだらかな丘の上にある学校が、次第に近付いてくる。いつもは早足で登る坂道を、今日はゆっくりと二人で歩く。街路樹が涼やかな木陰をつくり、俺たちは緑の木漏れ日の中をのんびりとした足取りで登校する。どこからか甘い花の香りが漂っていた。
「にしても、ちょっと意外だったな」
「なにがだよ」
「土方君ってもっと、取っつきにくい人かと思ってたからさ」
怒らないでね、とは続ける。
「今まであんまり喋ったことなかったし、真面目そうだし、女の子から大人気だし」
「んだよ、それ」
「それに、昨日の印象は最悪だったし?」
ニヤリと笑っては俺の顔を覗き込む。そんなの、自業自得だろ。そう思っているのに、うまく言葉が出てこない。の発した“最悪”という単語が想像以上に効いている。
融通がきかなくて悪かったな。でも俺だって、昨日を手荒に扱ってしまったことについては、済まないと思っていて――。
「でも、優しい人だよね」
少し首を傾げながら、俺を下から見上げるような形で、はそれまでと何ら変わらない口調でとんでもない言葉を放った。
何を言ってやがる。面と向かって言う台詞か、それは。照れくさいとか、恥じらいってモンがコイツには無いのか。
いや、照れているのも恥ずかしいのも俺だ。優しいってなんだ。褒め言葉なのか。まぁ褒められてんだろうな、裏表があるようなヤツには見えねーし。だからなおさらこっ恥ずかしいんじゃねェか。動機は早ェし、顔も熱い。
あァ、畜生。朝から調子が狂いっぱなしだ。でもそれを不愉快に思わねェ自分が一番問題だってこともわかっていた。


学校が近付くにつれ、生徒の姿が増えていく。部活をしているヤツらのかけ声が響いている。
細い腕、小さな爪、暖かい色をした髪、昨日までほとんど話すことのなかったクラスメイト。そして、心の奥底に頭をもたげ始めた感情。
蓋をしてしまったほうが楽に決まってる。脳みそは、そう俺に言って聞かせようとする。確かにそうだ。認めてしまったら、きっと大変なことになるだろう。だが、蓋を持ち上げる力は徐々に増していっているように感じる。ほんの少しの隙間から、奔流となって溢れ出てきそうになる。
俺はもう、手遅れなのか。全く困ったことになった。この朝の十数分の間に、世界はガラリと様変わりしてしまった。こんなことは生まれて初めてだ。まるで、迷子じゃねェか。
こんなに簡単に、しかも短時間に人の気持ちや思いというのは決まってしまうのだろうか。昨日まではどこにでも溢れている笑顔だったはずが、今ではどうだ。他人に振り回されるなんざ、ゴメンだと思っていたが、それも次第に仕方ねェと受け入れつつある自分がいる。こりゃあ重症だ。


「お前さァ、彼氏とかいんの?」
気がついたら、俺はこんな突拍子もない質問を口にしていた。脈絡も繋がりもない俺の唐突な質問に、は少し目を見張った。
「え、いない、けどなんで?」
よし、いないのか。いや、よし、じゃねーよ。なんとなくと適当に答えて俺はその場をごまかした。は驚いているようだが、一番驚いているのは実は俺だった。
少し、落ち着かなければ。何を口走っちまうかわかったモンじゃねェ。深呼吸にあわせで足をゆっくりと、大股に動かす。他の大勢の生徒たちと一緒に校門をくぐりながら、俺たちは一直線にげた箱を目指す。
「じゃあ土方君は?」
「は?」
ぐるぐると回ってばかりの思考を収めようと躍起になっているところへは話かけてくる。
「土方君は彼女とかいないの?」
今までとは違う、真剣な瞳に射抜かれる。は上履きを片手に持ったまま、微動だにしない。
「いるわけねーだろ」
「本当? そんなにモテるのに?」
「モテるとか、関係ねーだろ。好きでもねェ女と付き合う気はねーし」
そうなんだ、とはようやく靴を履き替えた。だが、が俯いたその瞬間、小さく良かった、と呟いたのを俺はしっかり聞いてしまった。
じゃあ私、図書館に寄ってから行くね、また後で教室で、とは呼び止める間もなく、俺を残して行ってしまった。


良かったって、なにがだよ。聞き間違いじゃあなかった。確かにはそう言った。
まじかよ。
俺はアホみたいに突っ立ったまま、動けないでいる。やめてくれ、自惚れてしまいそうになるだろ。掌に、じっとりと汗をかく。
知らない間に、思いはとうに溢れてしまっていた。俺ができることといえば、頭上を遠ざかりゆく水面を眺めて、沈んでいくだけだ。流される間もなく溺れてしまった。自覚するより先に、身体が動いていた。
こんなことってあるか。
遠くで小さく予鈴が鳴り響いていた。