波を起こしたのは私か、それともあなたか





絡まる指先、蜜色ネイル





5限が間近に迫った昼下がり。教室には休み時間独特の、のんびりとした空気が満ちていた。部屋には窓からの陽光が溢れていて、それがさらに生徒たちの浮かれた気分を助長させている。
お弁当を食べ終え、胃袋も満たされた私たちは上機嫌でお喋りに花を咲かせていた。最近発売されたお菓子、駅前のビルに入っている雑貨屋、昨日見たテレビ番組など、お妙ちゃんと神楽ちゃんと笑ったり、歓声を上げたりしながら授業が始まるまでのわずかな時間を満喫していた。


高校生、というものはなぜこんなにも楽しいのだろう。ふと我に返った拍子にそう思うことがある。制服という定められた枠の中で精一杯のオシャレをして、スカートをはためかせて、口を開けば笑い声が溢れ、体中にエネルギーが満ち満ちている。
経験や知識というものは無くても、私たちは希望という人生最大の武器をほぼ無尽蔵に持ち合わせていた。気の合う友達、愉快なクラスメート、少し緩い先生に囲まれて、毎日が楽しくて、幸せで卒業までずっとこのままだと、信じて疑ったことなんてなかった。
そこへ不意打ちのように、一つの石が投げ込まれ、平穏だった日常に波紋が広がり始めた。それとも広がり始めたのはずっと前のことで、今になってようやく気づいただけかもしれない。
そしてその波を私に気付かせたキッカケは、些細な、ふとすれば見落としてしまいそうなほどの小さな校則違反だった。


「おい、
突然後ろから声をかけられて、右手を掴まれた。驚いて振り返ると同じクラスの土方君が私を捕まえていた。
「なんですか」
三年生になって、二ヶ月が過ぎようとしていた。だが私は、未だ土方君とあまり言葉を交わしたことは無かった。風紀委員副委員長という堅苦しい肩書きに、人を寄せ付けない雰囲気、何よりもその容姿からくる女子の人気の高さに慄いて、まるで食わず嫌いをする子どものように、土方君には近づけずにいた。
「学校では学生らしい格好をすること。マニキュアが禁止って知ってるか」
土方君は厳しい先生みたいに腰に手を当てて、威圧してくる。しかしなんで彼はこんなに偉そうなんだろうか。
「帰ったら落としまーす」
自然私も反抗的な態度で応じてしまい、その結果土方君の眉間の皺はますます深くなった。
「今すぐ落とせ」
「無理。除光液なんて持ち歩いてないし」
そもそも今しているマニキュアだって、そんなに派手な色じゃない。透明に近いようなものなのに、土方君はなんでこんなのに気がついたのだろう。そこまで目くじら立てて怒らなくったっていいのに。
「少しくらいいいじゃない。ほとんど目立たないんだし」
「そーヨ。度量の狭い男ネ」
お妙ちゃんと神楽ちゃんも次々に加勢してくれる。やっぱり持つべきものは友達だ。
「例外をその都度認めてちゃ、他の生徒に示しがつかねーだろ」
三対一という不利な状況にも関わらず、土方君はきっぱりと、迷うこともたじろぐこともなく言い放った。そしてずっと掴んでいた私の右手をいきなり引いた。
「行くぞ」
「え、どこに」
「生徒指導室だ。そこなら除光液が置いてあるからな」
「今から? 5限に遅刻するよ!?」
「5分もありゃ充分だろ」
助けを求めてお妙ちゃんたちを振り返ったら、二人は揃っていってらっしゃいと手を振ってくれた。薄情すぎやしないか。さっきまでの友情はどこへ行ったんだ。こうして有無を言わさぬ勢いで私は指導室に連行されたのだった。


生徒指導室に到着する頃には、私はすっかり息が上がっていた。
「んだよ、だらしねーな」
土方君は呆れたようにこっちを見る。確かに私は体力があるわけじゃないけど、そもそもコンパスがちがでしょうが。そうは思ったが、口にするほどの気力もなくて、代わりに力一杯土方君を睨みつけておいた。
そんな私の恨み言もあっさり受け流して、土方君は部屋の机を漁る。正直、三年生にもなって、生徒指導室にお世話になるとは思わなかった。
以前来たのは確か、買い食いがばれたときだったか。そりゃあ学校に一番近いコンビニでアイス食べてたんだから見つかっちゃうよなぁ、などとつらつらと考えていたら、目の前に大き目のビンが突き出された。
「オラ、さっさと落とせ」
私はわざとらしく溜め息をついて、除光液を受け取った。
「ちょっとそこのティッシュとって。あ、あとシンナーの匂いがきついから窓も全開にして」
私のささやかな嫌がらせに、土方君はそれくらい自分でしろよな、と文句を呟きながらも動いてくれた。それで溜飲が下がったわけではないけれど、私は窓辺の椅子に座って大人しくマニキュアをとることにした。
その私の様子を土方君は壁に凭れながら、しっかりと見張っているようだった。私は自分の手元を見つめて俯いているから、彼の方を窺うことはできなかったが、首筋に痛いほどの視線を感じる。さすがにそこまで凝視されると、こちらとしてもやりにくい。
それとも、この期に及んで私がごまかすとでも思ってるのだろうか。いくらなんでも私だってそんなことはしないのに。
べったりと張り付いた視線を無視して、マニキュアに専念する。早く済ましてしまわなければ、本当に授業に遅刻してしまう。除光液をティッシュに含ませては爪を擦るという単純作業に私は没頭することにした。


「なァ」
突然、それまで黙っていた土方君に話しかけられた。
「はい」
顔も上げずに返事をした。なのに土方君はそんなのお構いなしという風に続けた。
って髪染めてんのか?」
こっちは素直にマニキュアを落としているというのに、まだイチャもんをつける気なのか、この男は。一言文句を言ってやろうと思い顔を上げたのだが、土方君のさっきまでのような高圧的な態度はすっかり消えていて、むしろその目からは純粋な疑問符しか見て取れなかった。
「いや、染めたことは、無いけど」
私は口元まで出かかった文句をなんとか飲み下して、もごもごと歯切れ悪く答えた。
「そうか」
会話はたったそれきりで終わってしまった。仕方なく私はまた自分の爪に集中したのだが、どうにも腑に落ちなかった。いったい、なんだったんだ。脈絡無くこんなことを聞いてきて、なんのつもりだったんだ。
私は雑念を振り払って、作業に集中した。しようとした。しかし頑張れば頑張るほど、さっきのやり取りが頭の中でリピートされて、集中どころではなかった。たいした話じゃなかったのに、なんでこんなにも気になって仕方が無いんだろう。私は土方君に気づかれないよう、息を吐き出した。


それにしても、なんで髪だったんだろう。確かに私は真っ黒じゃないけど、染めたと思われるほど茶色くは無いはずなのに。逆に土方君は真っ黒だよなぁ。茶髪にしたいのかな。でもちょっと似合わなさそう、というより、土方君は黒が一番いいと思うんだけどな。あ、それ以前に風紀委員のか彼が染髪なんてするわけないか――。
思考を無理矢理別に持って行っているうちに、マニキュアは全て取れてしまった。よし、と確認しているとまた土方君に声をかけられた。
「終わったか」
「完璧だよ、ほら」
両手を土方君の目の前の高さにまでか掲げて見せるつもりだったのだが。土方君は私の予想を軽く飛び越えてくれた。
彼は私の手を取って、自分の鼻先にまで近づけて、丁寧にチェックし始めたのだ。これには私も息をのんだ。驚きすぎて、手を引っ込めることもできなかった。両手を繋いでいるような格好で、土方君は私の指先をためつすがめつ眺めていて。大きく温かい掌に捕まって、心拍数と体温が一気に上昇したのがわかった。
長い睫毛。整った顔立ち。広い肩幅。女の子たちが土方君に夢中になる理由がよくわかった。というか、身をもって思い知った。こんなにも胸が苦しいのは、私が呼吸をするのも忘れて土方君に魅入っているからだろうか。認めたくない。なんで今日、この場所、このタイミングで! でも気づいてしまった。後戻りもできない場所に踏み込んでから、辺りを見回してみても、もう遅い。


どうか早く終わって。時間が経つのがひどく遅く感じられる。もうあと5秒、この状態が続いたら発狂するというところまできて、ようやく私は解放された。
「よし、大丈夫そうだな」
「……どうも」
土方君は満足げだったが、私はそれどころではなかった。心臓は暴れまわっているし、眩暈まで起こしそうだった。でも、彼の熱を失った両手は所在無く、もの寂しく感じられて、その自分の感傷に私はまた顔を熱くした。
「ほら、もう行くぞ」
「え、どこへ」
「授業に決まってんだろ。遅刻してェってんなら、いいけどよ」
行きます、と私は慌てて土方君の後を追いかけた。その背中は、昨日まではなんとも思っていなかった姿だったのに、今日のたった数分でそれは劇的に変わってしまった背中だった。
いったい、なにが起きたのだろう。なにもなかったはずなのに、私の中では確かに気持ちが弾けて、溢れ出してしまった。堰き止めることもできずに、ただひたすら湧いてくるだけ。


平穏だった日常に、波紋が広がり始めた。波紋は波紋を呼び、いつしかさざ波となり、やがては大きなうねりとなって私を飲み込むだろう。それが吉と出るか、凶と出るかまだわからないけれど。流れに身を任せてみるのも悪くないだろうと、チャイムを聞きながら私は思ったのだった。