少しずつ、大きくなっていく。 桃色チークは不要なの その空間は、大半が静寂で占められている。時折響く、物音や話し声も部屋の空気を大きく揺らすほどではない。薄く開かれた窓からは、カーテンをはためかせながら控え目な風が吹き込んでくる。風は、本棚の隙間を縫い、鼻腔に埃っぽい、それでいて懐かしい香りを運んでくる。 一日の終わり、西日が差し込む時間帯の図書館が、私は好きだ。机に反射した光が、天井をオレンジ色に染め上げる。まるで、橙色の海の底へ沈んでしまったようだ。人影もまばらで、ページをめくる音が遠くからでもよく聞こえる。 私はカウンターに座りながら、漠然と辺りを見回す。この静かな部屋は、ひどく居心地が良い。もちろん、友人たち賑やかにお喋りするのも大好きだが、一人でのんびりと何をするでもなく、あちこちに思考を散らしてみたり、一心不乱に本を読んでいたりという時間も、それはそれで楽しかった。 頬杖をついて、手元の本に目を落とす。その体勢のまま、私はしばらくこの静かな部屋の雰囲気を楽しむ。密やかに響く足音、古い書物特有の匂い、どこかの窓から吹き込んできた風――いや、今日はほとんど風なんてなかったはず。じゃあこの空気はどこから流れてきているのだろう。私が顔を上げるより早く、ドアの閉まる音が聞こえた。あぁ、誰かが入って来たのか。それにしてもこんな遅い時間に珍しい。そんなことを取りとめもなく考えていた。 図書館と言う部屋はその性質上、利用者が少ない。その数少ない利用者は、毎日自習に来る人だったり、毎週同じ曜日に本を借りていく人であったり、そのほとんどが顔馴染みになっている。もっと利用者が増えてくれたらいいのに、とも思うし、その反面この自分のお気に入りの場所は、私一人の胸の中にしまっておきたいとも思う。我ながら矛盾している、と苦笑していたら、頭上から聞き覚えのある、心地良い低い声が控え目に降ってきた。その声は、いくばくかの驚きの色を含んでいたが、私の方も予期せぬ場所で予期せぬ人に会い、充分驚いていた。 「何してんだよ、こんなトコで」 「いや、いちおう私、図書委員だからさ。土方君こそ図書館に来るなんて珍しいね」 まァな、と相槌を打ちながら、土方君は落ち着かない様子で辺りを見回している。図書館に来たというからには、本を借りていくのかと思ったのだが、土方君は私の座っているカウンターの前から動こうとしない。どうも様子がおかしい。 「お前、さァ」 土方君はバツが悪そうに、口を開く。こんなに煮え切らない態度の彼も珍しい。辛抱強く次の言葉を待っていると、土方君は溜め息と一緒に、肩を落とした。 「先週、銀八が出した宿題終わったか?」 その台詞で、大体の事情がわかった。え、でもあの土方君が。スポーツ万能、成績優秀な彼がまさか。 「……土方君って読書感想文苦手なの?」 私が心底驚いて、聞き返すと、土方君は顔を顰めて、そっぽを向いてしまった。 「いやっ、あの土方君って何でもできるイメージがあったからさ、苦手なものがあるとか想像できなくて、びっくりしちゃって。……気を悪くしたらごめんね?」 慌てて弁解すると、土方君はまた深い溜め息をついて、眉間に皺を寄せた。 「読書感想文が苦手って言うか、あんま本を読まねーんだよ」 だからなんな宿題出されても何読んでいいのか見当つかねーし、むしろ高校三年生にもなってなんで読書感想文とか書かなきゃなんねーのかわけわかんねーし、と土方君は唇を尖らせて文句を呟く。その仕草が、いやに子供っぽくて、普段のクールな物腰からかけ離れていたものだから、私は思わず思わず笑ってしまいそうになる。しかし、土方君は本気で困っているようで、文句と溜め息を繰り返している。 確かに、本をあまり読まない人にとって、読書感想文なんて課題は頭痛の種だろう。先週、銀八先生から出された宿題は、たしか次の月曜日に提出だったはずだ。そろそろ読む本くらいは決めておかないと、時間もなくなってきてしまう。 「、お前図書委員ってことは、よく本とか読んでんだろ?」 「そりゃ、まぁ人並みには」 「なんか、読みやすいのを数冊見繕ってくんねーか?」 あの土方君が、頼みごとをするなんて、よっぽど困っているのだろう。しかし、他でもない、土方君からのお願いだ。私は二つ返事で引き受けた。 「ほったらかしでいいのかよ」 カウンターから出て、本棚をウロウロする私に、土方君が小声で話しかける。 「大丈夫だよ、図書館を利用する人なんて多くないし。それに今来てるのはだいたい常連さんだから、読みたい本があれば勝手に借りてくよ」 そういうもんなのか、と土方君が感心したように呟く間にも、私の視線は本の背表紙を忙しく、いったりきたりしている。読みやすいもの、短時間でも読めるもの、と絞って探すものの、なかなかピンとくるものがない。私はすぐ後ろに立っていた土方君に、やはり小声で話しかける。 「土方君って好きなジャンルとかってある?」 「ジャンルって言われてもなァ、本なんてあんま読んだことねーし」 「本に限らず、テレビドラマとか映画でもいいから」 そうだなァ、と目を伏せて考え込む土方君は、またずいぶんと様になる。長い睫毛、もの思いに耽る瞳、形のよい顎に添えられた、きれいな指。まるで絵みたいだ、と見とれていたら、そうだ、と何かを思いついた様子の土方君とばっちり目が合ってしまって、私は一緒息が詰まった。 「俺、ペドロ好きだぜ」 「え、ペドロってあの、となりのペドロ?」 「そーだよ、なんか文句あっか」 「いえいえ、そんな滅相もない」 ペドロといえば、私の頭の中には、あのメタボ気味のサングラスのおっさんしか浮かんでこない。さっきの、格好良かった土方君からはずいぶんかけ離れている。 「もうすぐ、となりのペドロ2が公開だからな。も絶対見たほうがいいぜ」 唖然としている私を尻目に、土方君は真剣そのものだ。うん、まぁ機会があったら、と私は適当にその話題を切り上げた。となりのペドロは、子ども向けアニメ映画だ。私にはそれくらいの認識しかないのだが、最近は子ども向けといえど、手を抜いたりしないからなぁ、大人にも人気があるのかもしれないと思う。 でも、あの土方君が子どもたちに混じって、食い入るように映画を見ている姿は想像しただけでも微笑ましい。しかし、ペドロかぁ。感動モノがいいか、児童書だって最近は大人が読むのに絶えうるものが多いし、それとも子どもが出てくるようなものがいいか。 私は散々迷ったあげく、三冊ほどの本を抜き出して、土方君に手渡した。 「これなら短時間で読めるし、あんまり本を読んだことない人にとっても読みやすいと思うよ」 「おぅ、わりーな。仕事の邪魔しちまって」 「いいよ、利用者の質問に答えるのも立派な図書委員の仕事ですから」 じゃあ、三冊とも借りてくぜ、と土方君は貸し出し手続きをしていった。宿題頑張ってね、と声をかけたら、笑いながらうるせーと言われてしまった。 その後ろ姿を見送りながら、私は幸せに浸っていた。今日はずいぶん話ができたと、一人心の中で喜んでいたのだが、ついつい表情に出てしまいそうになる。顔の筋肉を意識して引き締めて、読みかけの文庫本に目を戻すのだが、なかなか集中できない。本の内容も全く頭に入ってくることはなく、私は10分ほどで諦めて本を閉じたのだった。 そして土方君が再び図書館にやってきたのは、それからちょうど一週間後のことだった。 どうやら宿題は無事、提出できたらしい。ご苦労様でした、と声をかけたら、ホント大変だったぜ、と苦虫を噛み潰したような顔をした。借りた本の返却手続きをしながら本は読めた、と聞くと、全部読んだと帰ってきた。 「全部? 一週間で三冊も?」 驚いて聞き返すと土方君は平然とまァな、答える。 「宿題用に一冊だけ読みゃいーやって思ってたんだけどよ、意外に面白くてつい全部読んじまったんだよ」 宿題しながら、部活に励みながら、委員会活動も疎かにしないで一週間に本を三冊も読めるなんて、この人は本当に何でもできるんだ、と感心する。 「じゃあさ、これを機会に色々読んでみたらいいんじゃない? 図書館ならいくら来てもタダだし」 土方君が本を読むようになったら、図書館を利用してくれるようになったら、教室以外で土方君と会えるかもしれない。話題だって、きっともっと増える。そうなればいいな、私は下心満載で、でもあまり期待はしないで提案する。だって私たちはもう受験生で、本当はこんなに本を読んだり、のんびりしている暇はもうないのだ。しかし。 「って毎週この曜日に委員会の当番してんのか?」 「うん、この時間には大体いるけど」 「じゃあ、週一くらいで借りに来るぜ」 え、今なんて言った? それは本を読むってこと? 本を借りに図書館に来てくれるってこと? 「俺ァ、読書が苦手だって思い込んでずっと食わず嫌いだったからな。でもが選んでくれた本は結構面白かったし、これを機に少し読んでみようかと思ってよ」 あまりに話がとんとん拍子に進むものだから、俄かには信じられなかった。毎週、本を借りに来る? 来週も来てくれる? 夢じゃないだろうか。あまりに都合が良すぎやしないか。 それでも私の薦めた本を、面白いと言ってくれたのは、素直に嬉しかった。頭を悩ませた甲斐があったというものだ。 「でもよ、俺ァ本とかあんま読んだことねーから、何がいいとか悪いとかわかんねーし、だからさえ迷惑じゃなければまた適当に選んでくんねーか」 ぶっきらぼうに放たれた言葉に、私は再度驚いた。迷惑だなんて、そんなこと思うわけがない。むしろ願ったりだ。土方君と会う予定を、話ができる機会をはからずも確保してしまった。 念のために、私なんかでいいのか、と聞いてみたのだが、お前以外に誰がいるんだよ、とあっさり返されてしまって、私は息ができなくなってしまうほどに舞い上がってしまった。 に時間があるなら、今日からでも早速借りて行きてーんだけど、という土方君の言葉に私はようやく我に返った。わかった、とぎこちなくカウンターを出て本棚に向かう私の後ろを土方君がついてくる。幸せすぎて、どうにかなってしまうかもしれない、と柄にもなく思った。 一週間に一度、本を借りに来てくれる、ただそれだけのこと。約束というほどのものではないけれど、だけどこれは数少ないチャンスであることは確かだ。もっと土方君と話がしたい。彼のことが知りたい。私のことを知ってもらいたい。欲を出せばキリがなくなってしまう。 でも今は、このささやかな逢瀬を身体いっぱいに感じよう。腕に心地良い本の重みを感じながら、私は気付かれないよう頬を染めた。 |