私たちは不完全である。





月面ウサギに孤独死を





カラリと障子を開けると、眩しいほどの月光が差し込んだ。空には真円の月が浮かんでいる。
「晋介さん、今日は十五夜ですよ」
は振り向いて暗い部屋の中で一人盃を傾けている男に声をかけた。
今年の夏は例年に増して暑く、残暑も厳しかったが、さすがに最近はずいぶん過ごしやすい日が続いている。あんなに喧しかった蝉も、気づけばすっかり静かになって、代わりに秋の虫の音が響くようになっていた。
どこかで風鈴が鳴っている。誰かがしまい忘れているのだろう。そこだけ微かに夏が残っていた。


「今晩は月見酒だな」
高杉は縁側で飽きずに空を眺めていたの横に腰を下ろし、酌をさせた。
「明るいですね。街灯なんか、いらなくなるくらい」
が手をかざすと、畳の上にくっきりと影が落ちた。月明かりでただでさえ白い肌が、さらに陶磁のように透きとおるように見えた。


高杉が初めてに出会ったのは春の頃だった。雨が降っていたように思う。
その日からずっと、半年近くもこの家に通い続けている。夕方に訪ねて酒だけ飲んで帰る日もあれば、2,3日居続けることもあった。
は俺のことを好いているのだろう、と高杉は思う。ただその愛情が押し付けがましいものではなく、面倒でないからという理由でこの家に厄介になっているにすぎない。


が静かに酒を注げば、高杉は黙って盃を空けた。沈黙は気まずいものではなかったが、今日は珍しく高杉から口を開いた。
「お前、知ってたか。円ってェのは完璧の象徴なんだってよ」
「完璧、なんですか? どうして?」
「……欠けてねェからだ」
完璧かぁ、とは感心したような声をあげて、月を見上げた。
完璧。欠けざるもの。完全無欠。
そんなものなどこの世にありはしない。月とて、完璧ではないだろう。高杉自身も、恨み、憎しみは身体の外に溢れる程なのに、例えば、慈悲や優しさの気持ちなどは欠片も湧いてこない。
くだらない、と高杉は呟いた。
歪であることを悔しく思ったことなどなかった。だが、腹の奥底にわだかまる、この黒い感情はなんだ。
俺ァ月が羨ましいのか。あんなモンに嫉妬してどうする。自嘲して、酒を喉に流し込んだ。


はというと、いつも笑っているような女で、どんな仕打ちをしてもほとんど怒ったり泣いたりすることはなかった。
これはこれで、人としての感情がいくばくか欠落しているのかもしれなかった。
案外、足して二で割ったくらいがちょうどいいのかもしれない、と高杉は思った。


「晋助さん、古事記って読んだことありますか?」
「古事記だァ?」
晋助さんは興味ないかもしれないけれどと言って、は次のようなことを言った。
――イザナギは自分の体に余っているところがあるんだけど、貴女の体はどうかってイザナミに聞くの。するとイザナミは私の体には足りないところがあるわ。だから貴方の余っているところを私の足りないところに埋めたらどうかしらって。


「んだよ、カミサマってェのはめんどくせーな。やりてーなら素直にそういやいいのによ」
高杉が不機嫌そうに言うと、は袂で口を抑えて笑った。
「そうではなくて、イザナミとイザナギって神様なんですよ。なのに足りなかったり、余ってたりして」
月を見上げながらは続けた。
「でもそれだから二人は結婚して一緒になれたのかなとも思うんです。月は、月だけで完璧だから、誰とも何とも寄り添ったりできないんじゃないでしょうか」
の瞳に寂しそうな色が写った。


神は、その不完全さゆえ、互いの過不足を補いあうために夫婦になれた。
しかし月は、この先何十年も何百年も、孤独に周り続けるだけなのだ。
ならば、と高杉は思う。
高杉とが共に過ごすことにも意味があるのだとしたら。
互いに与えたり受けることができているのならば。


「酒」
「はい、ただいま」
空の徳利を持って、は台所へ消えた。
俺達ァ二人合わせたって完璧にはならねェ。
隻眼で月を睨みながら胸の中で呟いた。
だが、俺はと寝ることができるし、共に酒を飲むこともできる。
高杉は喉の奥で笑った。
「どうしたんですか、一人で笑って」
よく冷えた酒を持ってが戻ってきた。
「なァに」
なみなみと酒を注いだ盃に歪な月が写りこんでいる。
高杉は口の端を吊り上げて、月を飲み干した。
「ざまァみろって、そんだけさ」