触れなくても届く温もり





もし優しさが、形を持っているならば





嫌な予感というものは、大抵当たる。そしてその兆候は数日前からあったのだ。気のせいと見ないフリでごまかしてはきたけれど、それももう限界だった。かくして私は布団と寝巻きと薬と仲良くなるハメに陥った。
最初は咳、次に鼻詰まり、トドメに発熱と風邪の王道を歩んでしまった。ちゃんと暖かくして寝ればよかったと、今更悔やんでみたところで後の祭りだ。
仕方ない、今週は忙しかったんだもの、この週末はしっかり休んで、さっさと風邪なんか治してしまおう。そう心に固く誓って、私は毛布にくるまった。


人間とは不思議なものだ。寝る、と気合を入れれば入れるほど、目が冴えてしまうのだから。頭は霞がかかったかのようにボンヤリしているのに、眠気は欠片も感じられない。家の中は静かすぎるほどで物音はなんて一つもしないのに、なぜか耳が痛い。
こういうとき、一人暮らしをしていることを後悔する。人の気配や温もりが懐かしく感じられる。孤独感と不安が互いに互いを呼び寄せる。
小さな音でテレビをつけよう。そして点けっ放しで寝よう。子供のようなことを考えながら、身を起こしたとき、微かに廊下が軋む音かした。


「なんだァ、もう寝んのかよ」
無遠慮に襖を開けた晋助は、隻眼を細めながら部屋を見渡す。ここ数日、体調を崩していて部屋の掃除まで手が回らなかったせいで、床は足の踏み場もないくらい荒れ散らかっている。そんなにジロジロ見ないで欲しい。
「風邪ひいちゃって熱もあるから今日はもう寝るわ。おやすみなさい」
無神経な晋助に少しばかり腹も立ったが、さっきまでの不安な気持ちはいつの間にか消し飛んでいた。やっぱり、誰かがそこにいてくれるだけで暖かい。これなら良く寝られそうだと、安心して布団に戻ろうとしたのに。
「メシは?」
「……お粥が鍋に入ってるから、温め直して勝手に食べて」
私は晋助に背を向けて、毛布を頭の先まで引き上げた。


息苦しくなって目を開けてみるも、視界は相変わらず真っ暗だった。どうやら毛布に潜った格好のまま寝てしまったらしい。
汗でぐったりと湿った寝巻きは不快だったが、気分はいくらかすっきりしたように感じた。布団から頭を出すと、冷たい空気が頬に触れた。
「もう起きたのか」
声のした方を振り向くと、晋助が私の足元で壁に凭れながら、瓢箪に直接口を付けて酒を呷っていた。とうに出て行ったしまっただろうと思っていたので、私は少しばかり驚いた。
時計を確認してみると、どうやら私は一時間ほど寝ていたらしい。その間、ずっとここにいてくれていたのだろうか。
「お粥、食べた?」
「いや、あんなもんで腹が膨れるわけねーだろ」
そう言って晋助は何をするでもなく、ただひたすら酒を喉に流し込む。不機嫌そうに見えるのは、空腹のせいかもしれない。そんなにお腹が空いたなら、外にでも食べに行けばいいのにと思う。
それでも晋助がいるこの部屋はさっきより居心地が良い気がする。
「ねェ、晋助」
布団の中から呼ぶと、こちらを見もせずに、なんだと返してくる。
「私、お粥が食べたい」
晋助に頼みごとをするなんて、私も相当熱にやられていたとしか思えない。いくら人恋しいといっても、相手はあの高杉晋助。傍若無人が服を着て歩いているような男だ。
「……持ってこいってか」
思ったとおり、晋助は眉間の堀を深くした。期待なんか微塵もしていなかった。ただ、好奇心に負けて言ってみただけだった。それなのに。
「面倒臭ェ女」
溜め息をつきながら、晋助は立ち上がり台所へと消えていった。その予想外の行動に驚いたのは私のほうだった。私は思わず、晋助を呼び止めてしまい、まだなにかあるのかとばかりに晋助に睨まれる。
「……流しの下の棚に、ツマミになりそうな缶詰があるから」
やっとのことでそういうと、そういうことは最初に言えと怒られてしまった。


晋助が盛ってくれたお粥はかなりの量だったが、白い湯気が立ち上っていて、体の中から暖まっていくようだった。
少しずつお粥を啜りながら、気付かれないように晋助の様子を盗み見る。
晋助は先ほどと同じように壁に背中を預けて、酒ばかり飲んでいる。缶詰の中身を皿に移すこともせず、直に箸をつける。
なんだろう、私はさっきからずっと言いようのない違和感に囚われていた。いつもと何かが違う気がする。でもそれがなんなのか、いくら考えてもわからない。晋助のいつにない優しさが、そう思わせるのだろうか。いや、そんなことではなくて、もっと別の――
「なにジロジロ見てやがる」
いつのまにか、お粥を食べることも忘れて、晋助を見ていたらしい。持ち上げたスプーンは中途半端な高さで、頼りなげに漂っていた。
「いや、お粥ありがとう」
素直にお礼を言うと、晋助はフンと鼻を鳴らした。
「どうせのことだ、粥はつくったクセにそれを食うだけの気力はなくて、ブッ倒れたんだろ? 無理にでも詰め込んどきゃいいのによ」
そう言って晋助は喉の奥で笑った。私は唇を尖らせてはみたものの、晋助の言ったとおりだったので、反論はできなかった。


スプーンが茶碗に当たる音だけが部屋に響く。沈黙は気まずいものではないが、喉の奥に小骨が引っかかったようなもどかしい感覚は、依然として在る。
少しずつ減っていく器の中身をスプーンでかき混ぜながら、熱ではっきりしない頭で今日の出来事を反芻する。
風邪で思うように動かない身体、晋助がよそってくれたお粥――なんだかイレギュラーなことが多すぎて、考えれば考えるほど混乱してくる。おかしいのは私の脳みそだったんだろうか。
悶々とした気持ちを抱え、お粥を完食した頃にはお腹がいっぱいになっていた。ごちそうさまでした、と手を合わせると晋助が、全部食ったのかと呆れたように言ってきた。あんなに山盛りにしたのは晋助じゃない、と抗議すると、残しゃいいじゃねーかとやはり馬鹿にしたように笑った。
「まァ、そんだけ食い力がありゃ大丈夫だろ」
晋助に、さっさと寝とけと言われた途端、急に眠気が襲ってきた。満腹になるまで食べて、すぐに寝ちゃうなんて太るなぁと思う間にも、どんどん瞼は落ちてくる。晋助もどうやら酒を飲みきってしまったらしく、心なしか眠そうにしている。瓢箪と空の缶詰が床に転がっている。


そうか、私はようやく心に巣食っていた違和感の正体に気がついた。そこにあるのが当たり前すぎて、もはや風景のようになっていたから、だからこんなにもしっくりこなかったのだ。
「寝ないのか」
晋助は決して風邪をひいた私の代わりにご飯を作るなんてことはしないし、心配して熱を計ってくれたりなんかしない。それでも私は知っているから。
「晋助は、今日はタバコ吸わないの?」
暖かい布団の中でまどろみながら聞く。きっと私のためだなんて、口が裂けても言わないでしょうね。だんまりを決め込んでしまった晋助を尻目に、私は目を閉じた。晋助がそこにいてくれるから、私は安心して眠りにつくことができる。
晋助が暖めてくれたお粥は、一人で食べるより断然おいしかった。
深く、意識が沈む直前、晋助が憎まれ口を叩くのを聞いた気がした。