走り続けた道の途中、立ち止まることも方向転換することも、既に不可能





ねぇ、さっさとあきらめて(私にしとけば、いいじゃない)





居間から、何かが壊れる派手な音が聞こえた。私は台所で手を泡だらけにしながら、こっそりと溜め息をつく。
洗い桶には、今日の二人分の食器が積まれている。夕方に突然訪ねてきた人物は、ご飯を食べている最中も始終無言で、体中からどす黒い空気を発散させていた。
晋助の癇癪は今に始まったことではない。我儘にもずいぶん慣れてしまった。そんなこと、別に嬉しくともなんともないが、ひとまずは晋助を宥めるべく、手拭いで水気をふき取り彼の元へ向かった。


「八つ当たりも程々して欲しいわ」
音の正体は割れた湯呑み茶碗だった。私が晋助のためにと買ったそれは、見るも無残な姿になっていた。
うるせェ、と晋助は瓢箪に直接口をつけて、酒を呷る。結構気に入ってたのに、と嫌味を言って睨みつけても、この男はこちらを見向きもしない。それでも私は、数日後にはまた新しいお椀を買っていたりするんだろう。先のことが容易に想像できて、自分がイヤになる。
結局、高杉晋助という存在は、私の生活に深く根ざしているのだ。気がついたら底なし沼に嵌ってしまったように、身動きが取れなくなっていた。
しかし、不自由はあっても、不愉快ではない。だからますます私は抜け出せなくなってしまう。つまりは、泥沼から脱出する気のない私が、深みに沈んでいく一番の原因なのだ。


茶碗の破片を一つ一つ拾いながら、そんなことをつらつら考えていた。晋助はというと、相変わらず酒ばかり飲んでいる。しかしその手の甲に一筋の赤い傷が走っているのが見えた。
「晋助、右手に」
おそらく茶碗の破片で切ってしまったのだろう。だが、傷の様子を見ようと伸ばした手を晋助は無造作に振り払った。
「んなもん、舐めときゃ治る」
傷に舌を這わせる晋助の姿が酷く妖艶で、私は払われた手の痛みも忘れ、思わず見入ってしまった。
この男には、人を惹きつける力がある。かくいう私もその一人で、どんな仕打ちを受けても、結局晋助から離れることはできないのだ。


晋助のために身を滅ぼしたり、命を落としたりした人を、たくさん見てきた。私も最終的にはそういった人たちと同じ末路を辿るのだろう。それはその昔、晋助に会ったその瞬間に決まってしまったことだった。
晋助はそれらを全て承知の上で、私が晋助を追い返すことができないというもの知って、何かある度に、私の家に転がり込んでくるのだ。晋助に反抗的な態度を取るのは、私のささやかな抵抗だ。しかしそれすら見透かされていて、なお家に居座っているのだから本当にタチが悪い。
全く、私ときたらなんて都合の良い女なのだろう。溜め息をつくことすら飽きてしまった。


でももし。畳の目を数えながら私は思う。もし、晋助の袂を引いて、私を見てくれとすがってみたらどうか。
やっぱり晋助はさっきのように、なんの躊躇いもなく私の手を振り払うだろう。そのほうがいいかもしれない。このまま晋助を待ち続けるよりも、振り回され続けるよりも。自分からこの関係を断ち切ってしまえば、きっと楽になれるだろう。
すがったりしない。期待もしないし、希望も持たない。自分じゃ飲まない酒を買うことも、いつか捨てられるという恐怖と戦うこともない。晋助がいなくたって、一人で生きていける。
それでも、もし晋助がいてくれたら。私の思考はいつもここで止まる。もしかしたら、というくだらない夢を諦められないことこそが私の敗因だというのに。なんでこんな男なんかに。悔しがったところでなにも変わらない。変えることなんてできなかった。


「今日、真選組の奴らと殺り合ったぜ」
なんの脈絡もなく、晋助はおもむろに口を開いた。
「……真選組と?」
真選組は江戸の治安を守るために特別に組織された、武装警察集団だ。いわば、晋助の天敵。
「ブッ潰してやろうと思ったんだがなァ、アイツら思ったよりもしぶとくてよ」
晋助は煙を吐き出し、口元を歪めて笑った。
「まァ、そのほうが壊し甲斐があるってモンだよなァ」
そう言って、喉を鳴らした。いったい、なにが楽しいというのだろう。人を裏切り、傷つけ、死に至らしめることが笑うほど愉快なんだろうか。
でも晋助は気付いていない。破壊衝動を満たすために刀を振るい、銃の引き金を引いても。
「晋助に壊せるものなんてないわ」
晋助はキセルを持つ手を止める。面白そうに、それでも剣呑な光りを湛えた瞳が私を射抜く。
「随分、生意気な口をきくじゃねェか。どういう意味だ、言ってみろ」
「……別に、言葉通りの意味よ。晋助は晋助が思ってるほど強くはないわ」
晋助の表情から笑いが消えて、その男の人にしては小柄な体から、微かな殺気が立ち上り始めた。
「俺が弱ェって言いてェのか。だが俺ァ、今この場でてめェを殺すことだってできるんだぜ?」
そう言って、晋助は私の顔を覗き込む。この男はやっぱり気付かない。いや、いっそ死ぬまで気付かないほうがいいかもしれない。
「晋助は戦争が終わってから、ずっと一人だった。鬼兵隊ですら、晋助の孤独を埋めることはないわ」
思想も信念も、大事に思う人や物もない。怒りに任せて刀を振り回して、誰かを傷つけるたび、何かを壊していくたび、削れていくのは晋助の心だというのに。
晋助の言う、黒い獣の呻きとやらは、私にしてみれば痛みを訴える悲しい叫びにしか聞こえない。


「なに言ってやがる」
晋助は不快感も露に、吐き捨てるように顔を顰める。
「全く、不味い酒だったぜ」
そう言って立ち上がり部屋を出た。出ようとした。しかし私は気がついたら、その翻った着物の袂を掴んでいた。
無意識のうちに手が動いていたようで、自分でも自分のしたことに思わず戸惑ったが、晋助もまた少し驚いたように、右目だけで私を見下ろしていた。
「晋助」
縋りたくなどなかったはずなのに、それでも私の手は晋助の袂を固く握り締めたままで、
「晋助」
もう一度名前を呼んだ。私の願いに気付いて欲しかった。私の気持ちが彼に伝わればいいと思ってた。
「……なんだ」
「私は、晋助の鞘になりたかった」
苦しみながら刀を振るってなど欲しくなかった。晋助を戦争へと身を投じさせた世の中が憎かった。
あなたををここまで駆り立てたのはなにか。攘夷か、先生の敵討ちか、それともただの子供じみた喧嘩だったのか。わかっているのは、私は選ばれなかったということだけ。

晋助は私の手を振り払わなかった。
「俺ァお前を殺せるが、殺したいとは思わねェ」
これは拷問だ。切るならさっさと切り捨ててくれればよかったのに。いつか、刀を手放してくれるときがくるかもしれない。もしかしたら、私を選んでくれるかもしれない。そんな望みを抱く私は愚かだろうか。
ねぇ、晋助、あなたはいったい何をしたいの。私はいつでもここにいたのに、気付いてないわけないでしょう。
私の頬に伝う涙を、あなたが拭ってくれさえすれば、他になにもいらなかったのに。