あなたに出会ってから、後悔ばかりしている。 それでも、ありがとう お誕生日おめでとう、という言葉はいいですね、お祝いの気持ちが込められていますから。そう言って、その人は静かに微笑んだ。 だから、お祝いされた方は、感謝の気持ちを込めて、ありがとうと言いましょうね。自分を生んでくれた両親に、共に歩んでくれる友人たちに、自分をここまで育ててくれた、全ての事柄について。分かりましたか、晋助。 あのとき、晋助は目を輝かせて、わかりました、と答えていたっけ。あの頃はあんなに可愛かったのになぁ、それが今はどうだ。これでもかと言うほどに捻くれてしまって、見る影もない。本当に同一人物だったのかと疑いたくなるほどだ。 もうずいぶん遠くなってしまった過去を思い出して一人で笑う。あのとき、優しい笑みを浮かべていた先生はもういない。同じ学び舎で過ごした仲間も、その多くが先の戦争で命を落とした。先生が望んだ世は失われ、仲間が夢見た国も、跡形もなく消え去ってしまった。 それらと一緒に、あの幼い、純粋な心の少年も死んでしまったのだろう。永遠に手の届かない場所に行ってしまったのだ。もう、晋助の中に、あの頃の気持ちや思い出は欠片も残っていないのだろうか。戦争に参加することを決めたとき、死んでゆく仲間を助けられなかった時、戦争が終わってもなお、戦うことを選んだとき、昔は当たり前のように持っていた大切なモノを、少しずつ取りこぼしてきてしまったのかもしれない。 銀時や、小太郎や、私と過ごした時間でさえも、不要なものとして切り捨てられてしまったのかもしれない。もしそうだったら寂しいなぁ、と一人縁側で呟いた。 眼前には、あまり手入れのされていない、雑草だらけの庭が広がっている。それはそうだ。この家の唯一の住人である私が、怠けているから、庭にはどこからかやってきて根を下ろした草や花が好き放題に伸びている。 絶え間なく響く蝉の鳴き声に、汗が流れる。たった、一週間の命だというのに、彼らは惜しげもなく声を張り上げ、一日中鳴いて、簡単に死んでいく。 なんだか、晋助に似ているな、とそんなことを言ったら、あの男は怒るだろうか。いや、案外笑って、その通りだとでも言うかもしれない。短い命を派手に燃やして、あちこちに飛び火させて、散々かき回した後で、真っ先に死ぬような、高杉晋助とはそういう男だ。 蝉の鳴き声が、突然止んだ。いきなり訪れた静寂に、私はふと我に返った。全く、何をしていてもいつの間にか晋助のことばかり考えてしまっている。私はそんなにあいつのことが好きだったっけ? でもまぁ、仕方がないか。今日は特別な日だから。 無理やり、理由をつけて自分を納得させる。溜め息を一つついて、私は夕餉の支度をするべく立ち上がった。 先日、商店街の福引で、たまたま商品券を当てた。偶然、酒屋が安売りをしていた。たまにはこういう日もある。私はお酒と、やはり割引されていたツマミを数種類買って、店を後にした。 別に今日、晋助が訪ねに来るわけではない。一週間も居座り続けたと思ったら、三ケ月も帰って来ないなんてことは、珍しくともなんともない。 そもそも、帰って来るなんて表現が合っているのかどうかも定かではない。晋助にとって、ウチは都合のよい宿みたいなものだから。それでも、何を言われようと、どう思われようと、私はここで晋助を“待っている”のだ。あの男が、いつでもこの家に帰ってきてもいいように、準備を怠らないようにしている。いい加減、空しいとも思わないでもないが、慣れてしまったといえば、その通りでもある。 晋助が来るのを、今か今かと待ち構えているくせに、それが空振りに終わっても失望しない。運良くこの男が帰って来たとしても、おかえりなさい、と喜びを隠し平常心を装って迎え入れることができる。 決して私が我慢強いのではなく、ただ諦めの境地に至ってしまったのだ。晋助だから仕方がない、と溜め息と一緒に希望を吐き出すことだけが上手になってしまっただけのことだ。 それでも、これだけ分かっているのに、期待をしてしまうのは所詮私は、分かったつもりになっているだけと言うことだろうか、結局、いいように振り回されっぱなしなんだよなぁ。晋助には振り回しているなんて自覚がないのがまた、憎たらしい。 晋助は、あの男は元気にしているだろうか。今日が自分の誕生日だなんて、覚えてないに違いない。まぁ、晋助らしいと言えばそれまでだけど。 だから、私は一人でやつの誕生日を祝うことにしたのだ。今、江戸に、この国に、晋助が生まれてきて良かったなんて思う人間はほとんどいないだろう。憎まれることはあっても、感謝されたり喜ばれたりするようなことは全くと言っていいほどしない男だ。だから、私くらい、あいつを祝ってやらないと。 あの純粋な目をした子供がいなくなっても、晋助がふてぶてしく笑っている間は、先生が晋助に言っていたように、おめでとう、と。晋助がありがとうなんて言うとは思えないけれど、この世の全てを憎んで壊そうとしているような男だけど。だったら晋助の代わりに、世界にお礼を言ってやってもいいし。 主人公が不在のまま、祝って感謝して、でもそれが一番あいつらしいから仕方ない。お誕生日おめでとう、晋助。あんたがこの世に生まれてきてくれて、こんなに嬉しいことはないよ。世界中のみんなが晋助を憎んで、敵に回ったとしても、私は晋助と出会えたことを後悔することなんて絶対にない。 先生の元で一緒に学んだこと、私をおいて戦争に行ってしまったこと、戦争が終わっても帰って来てくれなかったこと。楽しい思い出より辛い思い出のほうが多いかもしれないけど、それだって私と晋助を形作る大切な欠片たちなのだ。だから晋助がこの世界を憎んでいるかもしれないけど、私は晋助と過ごしたこの時代を、そんなに嫌いにはなれないんだ。 ごめんねぇ、晋助と同じ道を歩むことができないで。私は一人、そう呟いた。 よく冷やした酒を徳利に注いで、おかずを卓に運ぶ。いただきます、と手を合わせて、いきなりお猪口に注いだ酒を、一度に飲み干した。さすがに良い酒は喉を滑るように、抵抗なく胃の腑に落ちていく。やっぱり値が張るだけはあるなぁ、と感心した。 以前、晋助に飲まされた安酒とは全然違う。二杯、三杯と杯を重ね、空になった徳利にまた瓶から酒を注ぎ入れる。頬が、掌が熱を持ち始める。心地良い酩酊感に、気持ちだけでなく身体もふわふわと浮き上がりそうな感覚がする。 あぁ、おいしい。こんなに美味しい酒が飲めないなんて、晋助ったらなんて可哀想なヤツなんだ。鼻を鳴らして、空のお猪口を持ち上げたその瞬間、突然腕を掴まれた。 「手酌たァ、随分寂しい酒じゃねェか」 皮肉な笑みを浮かべて、鋭い隻眼で私を見下ろしていたのは、今日一日、私の頭の大半を占めていた本人だった。 「晋、助」 酔いが、いっぺんに吹き飛んだ気がした。なんでここに。何しにきたの。どうやって家に入ってきたの。疑問は次々と浮かんできたが、口が上手く動かない。やっぱり、酔いが飛んだなんてのは気のせいで、私はしっかり酔っ払いなのか。 それともそもそも、この晋助自体が幻なんじゃないだろうか。呆気に取られて、身動きできない私から酒を奪って、晋助は徳利に直接口をつけて中身を飲み干した。酒を呷った、そのときに喉仏が上下するのを私はぼんやりと見ていた。 「なかなか良い酒じゃねーか。一人で飲むつもりだったのかよ」 つれねェなァ、俺とお前の仲じゃねーか、誘ってくれたって罰は当たるめーよ、と晋助は目を細めて笑い、空になった徳利を私に押し付けた。 そのまま晋助は卓を挟んで、私の正面に胡坐を掻いて居座った。そうして、さも当然の権利だと言わんばかりに、おかずに手を伸ばす。 私は押し付けられた徳利を受け取った姿勢のまま、目の前の男を凝視した。前触れもなくやってきて、勝手に上がりこんできたこの男は、どうやら幻でもなんでもないらしい。この、傍若無人な振る舞いはまさしく晋助だ。 「なにボサっとしてやがる。早く酒持ってこい」 やっぱり晋助で間違いない。はいはい、と私は腰を上げお酒とお猪口を晋助の前に置いた。 にしても、今日はどうしたと言うのだろう。晋助のことだから、自分の誕生日を覚えているなんてことはないだろうけど。 「あァ? 来ちゃ悪かったかァ?」 「そんなこと言ってないでしょう」 「男でも引き込むつもりだったんじゃねーだろうなァ。こんなご馳走まで用意しやがってよ」 途端、晋助の目に剣呑な光が宿る。 「んなマネしてみろ。テメェごとそいつを叩っ斬ってやらァ」 くだらない、と私が吐き捨てれば、晋助は鼻を鳴らして笑う。そんな男がいるんだったら、こんなに頭を悩ますことなんてない。せっかく、一年に一度の記念日を祝ってやろうと思っていたのに、なんて祝い甲斐のない男だ。それでも、だ。 「」 弧を描く唇は、酒に濡れて怪しく光っている。 「またこの酒、用意しておけよ」 「だったら金を置いていきなさいよ」 高かったんだから、と文句を言えば、今晩身体で払ってやるよ、ときた。馬鹿じゃないの、そんなんで私が喜ぶとでも思ってんの。今晩だけじゃ足りない、明日も明後日も、ずっと居ればいいじゃない。わかったわよ、買うわよ、買えばいいんでしょう。そしたらまた来てくれるのよね。 酔いに任せて出かかった言葉を、慌てて酒と一緒に飲み込む。目を閉じれば、麻痺した平衡感覚が私に揺さぶりをかける。 「なんだァ、もう酔っ払ってんのかよ。だらしねェなァ」 うるさいな、私は酒を飲む前から、とっくにアンタに酔ってんのよ。どうせ慢性中毒で死ぬと決まっているんだから放って置いてどこへでも行けばいいじゃない。 この世がどんなにくだらなくても、私たちは二十数年前、ここに生れ落ちて、そして出会った。私は世の中になんか、死んだって感謝してやるものか。 |